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名に浮かび上がる人生観
小学館の『日本国語大辞典』には、「猪苗代兼載・猪苗代兼栽」と列記されている。兼載とあてるのが、大方の書き方であるが、兼栽とある文献も複数見られ、いずれが本当かと判定しかねる。
この問題について、金子金治郎氏は『連歌師兼載伝考』に於いて、
これは、自著署名がすべて載であるから問題にならない。辞書には兼載(「あわせのせる」の意)の熟語が見え、三体詩にも、「聞説攜琴兼載酒」(巻二、李嘉祐の「贈蕭兵曹」)といった用例が見える。三体詩は当時愛読された詩集であるから、あるいはヒントを得たかと想像もしてみるのであるが、要するに明らかでない。
と、兼載説を一応堅持してはいるものの、その根拠は依然曖昧(あいまい)である。
そこで、金子氏の指摘した『三体詩』の詩について言及してみたい。
蕭兵曹に贈る
李嘉祐
広陵の堤上昔離居す
帆は瀟湘に転ず万里余
楚沢病む時●鳥無く
越郷帰り去って鱸魚有り/潮は水国に生じて蒹葭響き/雨は山城を過りて橘柚疎なり/聞く説く琴を攜え兼て酒を載すと/邑人、争でか馬相如を識らん
この七言律詩の尾聯(れん)は、「聞くところでは、近所の人々が琴や酒を持参して訪ねてくるそうですが、司馬相如(しばしょうじょ)にも比すべき貴方は、村人たちに理解してはもらえますまい」という意味で、特に第八句は、司馬相如が故郷の蜀(しょく)では、いっこうにその才能を認めてもらえなかったことに譬(たと)えている。
もし、兼載が、この律詩をヒントに名を得たとすれば、彼の故郷観がある程度想像できよう。
悲運の宿命に生まれ、抜きんでた才能ゆえに「一指憤(いつしふん)」というつらい仕打ちを受けて故郷を背にした彼の人生観の一端が、浮かび上がって来るようだ。
一方、「兼栽」説も容易に否定できるものではない。現在、小平潟(こびらかた)天満宮の鳥居の側にある兼載碑は、「葦名(あしな)兼栽」と刻まれてある。
「栽」と字をあてた由来は、『兼載のいろ香』に次のように書かれている。
かつて兼載が自在院にいた頃(ころ)、いつも近くの住吉社に詣でて、和歌の奥義を得たいと祈り、「兼ねてぞ栽し住吉の松」という和歌から、自らの名を兼栽と名付けたと言う。
即ち、平安末期から鎌倉時代に活躍した歌人・慈鎮の歌によるというのである。
兼載が弟子の兼純(けんじゅ)に語ったとされる『兼載雑談』に、「慈鎮・西行などは歌よみ、その他は歌つくりなり」という定家の言を伝えていることから察すれば、兼載自身も慈鎮を歌よみの範として仰いでいたことになり、「兼栽」の由来が慈鎮の和歌によるものだとする説もうなずける。
「兼載」か「兼栽」のどちらが正しいか、現時点では判然としないが、後者の「兼栽」の由来が、自在院にいた頃とすると、6歳から10代後半までとなり、その頃兼載は「興俊(こうしゅん)」と名乗っていた事を考え合わせると、少し無理があるのではないだろうか。
●=服と鳥の合わせ文字
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戸田 純子
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小平潟天満宮参道の鳥居の側に建つ葦名兼栽碑 |
【2009年7月29日付】
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