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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 宗祇との対立と追慕(下) 
 
 30年余の日々思い絶唱


 明応4(1495)年には、『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』の編集をめぐって、宗祇と兼載の対立は、いよいよ表面化していく。

 2人の対立のいきさつが、当時の公家・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の『実隆公記(さねたかこうき)』に記されている。それによると、慈運院細川成之(しげゆき)の発句の扱いについて、兼載の主張に宗祇が反対し、主張の通らなかった兼載が細川成之の入集予定の十五句全部を切り出して持ち帰るという暴挙に出た、というのである。

 この紛争は実隆の斡旋(あっせん)で兼載も納得し、切り出した短冊15枚を実隆に届け、実隆から肖柏(しょうはく)を通じて宗祇のもとへ返すことで解決を見た。

 その後、この『新撰菟玖波集』に「句数が偏っている」との世評が高まり、兼載が自分の句を全部除いて世評に応えようとしたことが、晩年後継者の兼純に語ったとされる『兼載雑談』に記されている。

 そしてその時宗祇は、「兼載と私たちの句が入らなかったら、この集は面白くあるまい」と、兼載を慰め静めたと言う。

 この年、宗祇75歳、兼載は44歳であった。30歳以上の年齢差がこれらの確執の収拾を物語っている。常に編集の全体を見渡している宗祇の大局的で粘り強い実行力に、年少の兼載が冑(かぶと)を脱いだかたちとなったのだ。

 その後2人は独自の連歌活動を展開していくわけだが、文亀2(1502)年、宗祇が82歳で箱根湯本において客死した後、兼載は遙々岩城(現いわき市)から宗祇終焉(しゅうえん)の地を訪れ、追悼の長歌を次のように詠んでいる。

 「すゑの露 もとのしづくの ことわりは おほかたの世のためしにて 近き別れの 悲しびは 身に限るかと 思ほゆる 馴れし初めの 年月は 三十余りに 成りにけん そのいにしへの 心ざし 大原山に 焼く炭の 煙にそひて 昇るとも 惜しまれぬべき 命かは 同じ東の 旅ながら 境遥かに 隔つれば 便りの風も ありありと 黄楊の枕の 夜の夢 驚きあへず 思ひ立 野山をしのぎ 露消えし 跡をだにとて 尋ねつつ 事とふ山は 松風の 答ばかりぞ 甲斐なかりける」

 反歌「遅るると嘆くもはかな幾世しも嵐の跡の露の憂き身を」

 この長歌には、30年余りの交流を述懐し、宗祇に対する兼載の思いは、大原山の炭焼きの煙とともに我(わ)が身が昇り消えても惜しくはないとまで詠(うた)い、宗祇の死をはっきりと告げられ、驚く間もなく思い立って野山を越え、せめて宗祇の亡くなった跡だけでも訪ねたいという悲痛な想(おも)いがこめられている。そして、死に遅れ、宗祇亡き後は、嵐の後の露のようにはかなく辛(つら)い我が身を反歌で嘆いている、まさに絶唱という他はない。

 この長歌は、宗祇の弟子宗長が記した『宗祇終焉記(しゅうえんき)』に載せられたものだが、兼載にとって、宗祇の存在がいかに大きいものであったかを表わしており、自分をごまかせない実直な兼載が、その性格ゆえにぶつかりもした相手は、宗祇という老成した巨匠だったことに、兼載の幸運があったのかもしれない。

会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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編集をめぐって宗祇と対立した新撰菟玖波集(実隆本)

【2009年8月12日付】
 

 

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