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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 岩城に庵を結ぶ 
 
 妻は皇族出身との説も


 金子金治郎氏著『連歌師兼載伝考』には、注目すべき記載がある。
 文亀元年3月11日小童を建仁寺月舟和尚小弟になしける時、和漢一折に、
  若草も匂ひをうつせ
    花の蔭
      (園塵第四)

 兼載に妻子があったことを語る重要な資料であると記している。

 文亀元(1501)年の春、兼載はわが子を建仁寺の月舟に託すのだが、実はこの前年、京都大火のため、兼載の草庵は焼失しているのである。

 住居を失った兼載は、この年の春以降離京して、岩城の平に庵住していることから、都の生活を整理するための処置であったと推測される。

 上野白浜子(はくひんし)氏の『猪苗代兼載』には、兼載の妻に関して「兼載はわが妻を詠むのに、九重、雲井、大内山、竹園、位山などと禁裏(きんり)を表す言葉で表現していることから、皇族ではないか」と述べている。

 当時僧侶は妻帯しないとの伝説があって、真言宗は殊に厳しかった。真言宗自在院で少年時代を過ごした兼載は、後に連歌師となって妻帯したのであるが、宗門から言えば純然な僧侶とは言えないことで、兼載はこれを二筋の道と悩んでいたと、上野氏は指摘している。

 幼い頃(ころ)、故郷を後にして母との別れを余儀なくされた兼載は、学問と連歌に打ち込みながらも強い母への思慕の情を抱いていたことは前述した通りだが、やはりそう言った母性への憧(あこが)れが、彼をして妻帯へと踏み切らせたのではあるまいか。

 もし、上野氏の言うように兼載の妻が皇族であるならば、いかに都が騒然としていても離京は難しい。恐らく兼載は、幼いわが子をかつての自分のようにお寺に託して、ひとり都を去ったのであろう。

 さて、兼載が都を離れて岩城の平に庵住したのは、文亀元(1501)年頃と思われる。翌年には前述した通り、岩城から箱根まで宗祇(そうぎ)の跡を訪ね、追悼の長歌を詠んでいる。

 しかし、兼載の離京の目的は、帰郷だったのではないかと考えられるのだ。

 ではなぜ故郷の会津に庵住しなかったのか。実はこの年に、猪苗代では猪苗代盛頼(もりより)親子が葦名盛滋(もりしげ)と戦って敗れる「明応の乱」があり、上野白浜子氏の『猪苗代兼載年譜』によると、「白河から会津に入った兼載は、領主葦名盛高(もりたか)に争乱の収拾を進言したが、かえって領主の怒りにふれ、黒川の自在院に籠(こも)り、百韻を詠んで会津を去る。そして岩城に向かう」と記されている。

 金子金治郎氏著の『連歌師兼載伝考』には、「岩城は明応7、8年の下向に、岩城平の大館にあった岩城家の総領たる岩城総州家をはじめ、その重臣、白土摂津守家・志賀備中守家・塩佐馬助家などの会席を重ね、深い交渉を持った土地である」と記され、兼載の草庵は、大館の城西寺の側にあったとも伝えている。懇意にしていた岩城家の方が、混乱した会津よりも落ち着いて過ごすことができたのだろう。

 また後継者の兼純(けんじゅん)が岩城の人であったことも注目される。金子氏は文亀元、2年頃の岩城草庵時代に、兼載の雑談を兼純が筆録した可能性があると、『兼載雑談』の成立時期にも言及している。岩城での草庵生活に後継者の兼純という存在が加われば、兼載にはよりいっそうのどかな日々が続いたにちがいない。


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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兼載がこのそばに庵を結んだとされる、平大館跡の松ケ岡公園は、春は桜の名所としてにぎわいを見せる

【2009年8月19日付】
 

 

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