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現存していた兼載天神
金子金治郎氏の『連歌師兼載伝考』を続けると、「磐城誌料が掲げる兼載天神縁起によると、平大館の城西寺中に菅公廟(かんこうびょう)があって、法橋(ほっきょう)兼載の創立との伝え」が記載されており、兼載天神縁起について、さらに詳しく(大日本史料九編之二、永正7年6月6日条・兼載没の日より)「兼載が京都から関東に来て、磐城城西寺の側に草庵(そうあん)を結んで住み、昔より天神を尊崇(そんそう)し、常に信心していたため祠(ほこら)をたてて祀(まつ)った」という事情も記されている。
城西寺の側に庵(いおり)を結んだ兼載は、天神の祠を祀って拝んでいたというのだ。さらに昔から天神を尊崇し、常に信心していたとも書かれている。
では、この記載は伝承にすぎないのだろうか。
城西寺は戊辰の役で焼失し、現在は廃寺となっている。この寺は文学、殊に連歌師とのつながりが多い時宗の寺であり、当時城西寺が岩城家中の文学風流サロンであったことが想像される。
城西寺が廃寺になった以上、城西寺中にあったとされる菅公廟、すなわち「兼載天神」もなくなってしまったのではないかと懸念されたが、実は現存していたのである。
いわき市揚土の「子鍬倉(こくわくら)神社」という、地元では「県社」と呼ばれている荘厳な神社の境内に、秋葉神社とともにこぢんまりと鎮座されている。
鳥居脇の石碑には「菅社天満宮」と書かれており、神主の方に来歴を見せて頂くと、
天満宮祭神、菅原道真公。祭礼は毎年7月紺屋町区内の手により行われている。由緒としては、会津の俳人兼載なる人が会津の小平潟天満宮の分霊をまつった。
と、書いてある。
もと、平松ケ岡公園から、紺屋町へと移され、大正10(1921)年に現在の地に奉納されたと言う。
幼名を「梅」と名付けられ、小平潟天神の申し子とされた兼載が、北野天神社の連歌会所を主宰する奉行職という連歌界最高の栄誉を与えられた後もなお、天神を熱心に信心していたことが分かり、兼載が岩城に庵を結んでいたこともこれで明らかになってくる。
しかもこの「兼載天神」が「小平潟天満宮」の分霊をまつっていたことから、兼載と小平潟天神との密接なつながりが浮かび上がって来る。そして、できることなら故郷の小平潟で、天神を拝みたかった切ない想(おも)いまで推し量れるのではないだろうか。
だが、前述の通り、その頃(ころ)会津は争乱が相次ぎ、兼載が庵住できるところではなかった。『連歌師兼載伝考』には、兼載54歳の永正2(1505)年にも葦名を二分する葦名盛高(あしなもりたか)・盛滋(もりしげ)父子の「永正の乱」が起こり、凄惨(せいさん)な戦いに心を痛めた兼載は、戦乱を鎮めるため、「葦名祈祷百韻」を詠んでいる。そしてその効により、「則ち和合し侍り」と記されている。
当時はこのように、神に連歌を法楽し、奉納することにより生ずる神霊の納受感応の機能と霊験によって戦乱を鎮める祈願が各地で興行された。こうした連歌を賦詠(ふえい)するもののみが享受できる功徳を、「連歌十徳」と言い、兼載の筆とされる「北野天神連歌十徳」は、例えば「八は、捨てずして浮世を遁(のが)れる…十は貴ならずして高位に交わる」などと、連歌の特殊な性格と様式から生まれた功徳を説いている。
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戸田 純子
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庵を結んだ岩城で常々拝んでいた兼載天神 |
【2009年8月26日付】
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