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古河にも現存縁の地名
葦野を去った兼載は、故郷ではなく、古河へ移る。関東の名医と謳(うた)われた江春庵田代三喜(さんき)のもとで病気治療をするためであった。そのことが宗祇の弟子宗長(そうちょう)の『東路の津登』に永正6(1509)年の秋8月末、下野佐野で記したものとして次のように書かれている。
兼載は同じ関東の、五十里ほど離れた下総の古河という所におり、病気で、江春庵という関東の名医のもとで治療をしている。手紙などで時折連絡を取り合っているが、このあいだは「中風で手が震え具合が良くない」という返事をもらった。
この名医と謳われた田代三喜については、『古河市史』に、
武蔵川越の西、越生(埼玉県越生町)で生まれ、15歳の時医を志し、当時の慣習によって僧籍を得、のちに、そのころ全国一の学府として国中の秀才が集まっていた下野の足利学校に入った。23歳で中国(明)に渡航し、12年にわたる留学を終えて、明応7(1498)年帰国した。帰国後は、鎌倉円覚寺の江春庵におり、ついで足利に住んだが、永正6年、古河公方に招かれて、古河に住み、「古河の三喜」と称されて名声大いにあがった。
と記されている。この名医を招いたのは古河公方足利政氏(まさうじ)であろう。好学の政氏は連歌の指導を兼載に請うている。それに応じて兼載は『古川(古河)公方様江進上連歌』の小句集と、師の心敬から受けた教えを聞き書きした『景感道』を献呈している。
さて、現在、古河市内には桜町という地名があるが、江戸時代の地誌『古河志』によれば、「桜町は猪苗代兼載旧居の地で、桜をこよなく愛する兼載は、その屋敷のまわりにたくさんの桜を植えたという。そこで、この辺りは『桜町』と名付けられた」と言われている。
桜町は、渡良瀬川の土手近くに位置しており、その一角には「史跡古河城桜門址」の石碑が建てられている。碑文には「ここは追手門より本丸に通ずる第二城門の址(あと)であり、昔、連歌師猪苗代兼載が古河公方に招かれ、このあたりに住居を与えられ、兼載が好んだ桜樹を植えたことから、桜町という名称がつけられ、この城門の名前にまで及んだと言われる」という内容が書かれている。
前述した、那須郡葦野の「兼載松」を思い起こせば、兼載縁(ゆかり)の地名が、この古河市にも現存することになる。
桜を愛した兼載。永正6、7年の春の日、古河公方足利政氏と江春庵田代三喜、それに兼載の三者は、川のほとりに、霞(かすみ)や桜を背にしてたたずんだことが幾度かあったに違いない。その頃(ころ)が、古河の足利文化の最盛期であったらしい。
永正7年6月6日、古河で療養生活を送っていた兼載は、59歳でこの世を去った。
かつて兼載の師であった心敬は、相模大山のふもとに70歳で没し、宗祇も前に述べたように、82歳の生涯を箱根湯本で閉じた。
兼載も含めた連歌の巨星たちは、いずれも客死しており、歌枕の地を訪ね、新鮮な風物に接する旅を重要な生活としていた、連歌師なればこその終焉(しゅうえん)と言ってよいだろう。それでもやはり、宗祇や心敬と比べても、早すぎる死であった。
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戸田 純子
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桜を愛した兼載を偲んでつけられた古河市桜町 |
【2009年9月23日付】
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