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「英世は、生まれ変わり」
ところで、小平潟(こびらかた)村には興味深い話が伝わっている。
「野口英世は、実は小平潟で生まれ、それも兼載の生まれ変わりだ」と言うのである。
英世の母シカは、この村に女中奉公に来ており、英世が生まれた11月9日は、当時農繁期の末期に当たることから察すれば、英世が小平潟で生まれたとする説もあながち否定できない。
また、前節でも述べたように兼載の母が下女であったという説を採るならば、両者の母は、共(とも)にこの村に女中奉公をしていることになる。
そして二人とも信仰が厚かったことでも有名である。
兼載の母加和里(かわり)が熱心に天神祈願をして兼載を産んだことは前に述べた通りであるが、英世の母シカも信心深いことでは加和里に引けをとらない。
米国にいる息子英世の帰国を願ったシカは、囲炉裏(いろり)の灰に指で字の練習をして手紙を書く。明治45(1912)年1月23日付で米国ロックフェラー研究所の息子宛(あて)に送った手紙は、読む者を感動させずにはおかず、現在では高校の教科書にも採り上げられている。
おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚き)ました。わたくしもよろこんでをりまする。なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭(こ)もり)を。いたしました。べん京なぼでも(勉強いくらしても)きりかない。…にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんでおりまする。…はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません
シカが信仰していたのは、中田の観音であった。旧暦7月9日の縁日には終生「夜篭もり」をしたと言う。どんなに貧しくて働くのに忙しくても、彼女は1日たりとも観音像の前に額(ぬか)づくのを欠かしたことがなかったそうである。ある日、観音像の前で息子の出世を祈願している時に、1日の疲れからどうしても瞼(まぶた)が重くなってしまうというので、雑草の茎を弓なりにして瞼を持ち上げ、一途に合掌(がっしょう)していたとも伝えられている。
こんなにもけなげな母親の姿は、兼載の母加和里にも投影することができよう。
兼載の母は「加和里御前」と称せられ、小平潟村にその墓がある。
『福島県耶麻郡誌』には「旧碑は、長享元(1487)年9月6日神道明、村民とはかりこれを建てる。寛永20(1643)年、保科正之がその霊を祀(まつ)り、当村八幡神社の相殿とし、加和里御前と称する。安政5(1858)年、今の碑石に建て替える」と、記載されている。
この「加和里御前の墓」は現在、小平潟集落の東入り口、佐藤氏屋敷の片隅にある桜樹の根元に建っている。その墓石には「加和里の墓」と彫られ、左下に「兼載母」と刻まれている。
『福島県耶麻郡誌』の記載通り、碑石の裏には「安政五戊午(1858)年、渡邉篤立」と彫られ、渡邉篤という人物が、この碑石を建てたことを物語っている。
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戸田 純子
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加和里御前と称された兼載の母・加和里の墓 |
【2009年10月14日付】
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