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金剛寺の僧として修業?
さて、日本人は太古より山を神聖視し、高い山に神を仰ぎ、霊性を感得したいと願ってきた。そこから山岳信仰が生まれ、修験道(しゅげんどう)が成立していく。修験道は、古来の山岳信仰に、山岳仏教が習合し、天台・真言の両密教の発展によって2つの宗派に分かれ形成された。天台系修験を本山派と称し、真言系修験を当山派と称したのである。
兼載が生まれたとされる小平潟(こびらかた)も修験に関係したところであった。猪苗代本山派の修験道場となっていた成就院蔵の古文書断簡には、配下の修験者に送った回文の宛名(あてな)に、「(小平潟)界蔵坊、(同所)同創円坊」が見えると、金子金治郎氏著『連歌師兼載伝考』に指摘されている。
前節でも述べた通りだが、兼載は天台宗を背景とした心敬を師と仰ぎ、古今伝授においても、天台教説を背景とした堯恵流を受け継いでいる。
こうした都における行動圏の特色が修験に関係した出生地の背景と一致しているのは、偶然とは把握しにくい。
さらに兼載は6歳時に自在院へ入ったとされるが、この自在院は、真言宗の寺院である。当山派と本山派の違いはあるが、超教団的な修験の立場に立ってみると、連歌師としての地位を確立する以前の兼載には、多分に修験的色彩の濃厚な生活があったのではあるまいかと、金子氏はその著『連歌師兼載伝考』で述べている。
文明二(1470)年、心敬は興俊の招きで会津に来遊し、興俊に『芝草句内岩橋』二巻を贈った。この興俊こそ若き兼載自身であったことは前述の通りである。
かつて興俊は金剛寺の僧とされていたが、この金剛寺は会津真言四ケ寺の一院で自在院とも連繋(れんけい)があった。
上野白浜子氏の『兼載雑感』には、
金剛寺宝物帳の記録のなかに、心敬筆歌書、兼載筆十問最秘抄、和漢朗詠集、冷泉為相卿源氏物語などが伝えられてあったことである。
金剛寺過去帳によれば、開祖は法印長宥、京都醍醐寺門跡無量寺院の俊聴の下向によって開かれた修験寺であった。
と記載されている。
金剛寺に心敬や兼載筆のものが所蔵されていたことから、兼載がこのお寺に関(かか)わっていたことは否めない事実ではないだろうか。そして自在院とも繋(つな)がりのあったお寺ゆえ、若き兼載つまり興俊が金剛寺の僧であったとされる説も首肯(しゅこう)できる。最後に記された「修験寺であった」にも注目したい。
この記述の後に上野氏は兼載についても、次のように記している。
「自在院縁起」のなかに「童稚而就当時披剃未受具戒」とあって、具戒を未受とある。当時僧侶は妻帯しないことの伝説があって真言宗は殊(こと)に厳しかった。兼載は後に連歌師となって妻帯したのであるが、宗門から言えば純然な僧侶とは言えないことで、兼載はこれを二筋の道と悩んでいた。兼載は幼い頃(ころ)自在院で成長している。そして自在院で具戒を授けられているとみられるが、「自在院縁起」のように具戒を授けられていなかったとすれば、それは修験者の待遇であったと考えられるのである。
これらのことから、修験者もしくはその性格の濃い生活を、修験寺として開かれた金剛寺で若き日の兼載が送っていた可能性があると考えられる。
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戸田 純子
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兼載とかかわりがあると思われる金剛寺=会津若松市 |
【2009年10月28日付】
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