回想の戦後70年 歌謡編−(2)別れの一本杉

 
歌謡編−(2)別れの一本杉

会津坂下の穀倉地帯を見渡す、町はずれの一本杉(中央)。たもとの地蔵と併せて春日八郎記念公園に整備され、そばには「おもいで館」も立つ

 会津盆地の水田地帯の西端、坂道が里から峠へと上りゆく会津坂下町塔寺。のどかな田舎から出た青年歌手が1950年代、スターダムを一気に上り始めていた。春日八郎(本名・渡部実)。日本人の心の奥底にあって離れない郷愁を歌い、その人気を確固たるものにした代表曲「別れの一本杉」を発表したのは55(昭和30)年だ。

 日本は終戦を境に、昭和の新しい時代を必死に歩み、この年、国内経済は成長速度を増し戦前の水準に達していた。翌56年の政府の経済白書は「もはや『戦後』ではない」とうたう。終戦時に残っていた設備で産業を立て直した10年間が終わり、その後の展開を心配する経済官僚の言葉が真意とされる。しかし、世の中はそんな懸念を置き去りにするように高度経済成長期の扉をたたいたのだった。

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 春日が生まれた会津坂下は敗戦後、食べ物も着る物も、はくものさえも無い時代を強いられた。しかし、戦時中の灯火管制(空襲に備えて、屋外から灯火が見えないようにすること)が解除されたことで、明るい電灯が夜の家庭に戻っていた。

 戦中から戦後にかけて貧しい時代を生きてきた若者は、好条件の仕事を求めて、あるいは都会に憧れを抱いて、田舎を出た。春日は戦中と戦後の2度、上京している。最初は家計の負担を減らすため、次は歌手になる夢をかなえるため、東京へ向かう汽車に乗った。

 「うまいというより明るさがあった。ああいう声の歌手はいながったなぁ」。小学校で春日と同級生だった佐藤清さん(90)=会津坂下町=が初めて彼の歌を聞いたのは、ラジオ放送だった。テレビは53年にNHKが東京で開局したが、県内はまだ一般家庭まで普及しておらず、情報も娯楽もラジオ頼みだった。

 渡部実が春日八郎という歌手になったという話題も、同級生や一部の住民しか知らなかった。「何たって、食べていくために働かないといけなかった。余裕が出てくるにはもう少し時間がかかった」。農家だった佐藤さんはコメ、葉タバコ、麦、大豆を生産した。まだ機械化が進んでおらず、農家も手作業が当たり前。暑い日差しの日にも重い荷を背負って歩き、寒い冬には、わらじで雪を踏みしめた。

 それでも時代は着実に変化した。集団就職で地方から都会に出る者や、農村から出稼ぎに出る者が都会の急速な復興を支えた。一方、会津坂下にも機械工場ができ、農業以外の仕事が増えた。電力需要の増加を見越してダム工事も始まり、佐藤さんも農業の傍ら工事現場でセメント運びをして賃金を得た。

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 働きづめの毎日に、人々の心の原動力となったのは歌だった。町内の若者でつくる青年団は地区ごとに集まって歌や劇を発表する演芸会を開いた。町民には何よりの娯楽となった。春日の歌も歌われ、デビュー曲の「赤いランプの終列車」(52年)やヒット曲「お富さん」(54年)などで軽快に盛り上がった。

 ただ、「別れの一本杉」は先のヒット曲とはひと味違った。

 「私はこの曲を、こころよくうたった。自分の血がうたっている、すなおに歌っている、肌でうたっている、裸の心でうたっている、人間的なフィーリングを精いっぱいに吐き出している、そう感じた」(春日の自伝「ふたりの坂道」より)。

 歌詞に出てくる一本杉は、作詞家高野公男が故郷茨城県の風景を思い浮かべて作ったとされる。しかし、春日も同様に少年時代を過ごした会津の風景を思い浮かべて歌った。

 古里。春日に続いて三橋美智也、島倉千代子、美空ひばりら新しい時代の旗手が歌う故郷の歌は人々の共感を呼び、ヒットにつながった。その流れは演歌の時代の到来を告げたとされる。春日はその先駆けだった。

 会津坂下には「別れの一本杉」の歌碑が2カ所にある。一つは生家に近い恵隆寺(立木観音)の入り口。もう一つは町はずれの春日八郎記念公園。公園のお地蔵さんの脇には杉の木が立っている。都会へと旅立った若者たちを、故郷の同級生らが優しく見守るかのように。

 別れの一本杉 1955(昭和30)年11月に発売した春日八郎(1924〜91)の代表曲。この曲で演歌の第一人者としての地位を築き、大スターの座を得た。作詞は高野公男(1930〜56)、作曲は船村徹(1932〜)が担当。高野は肺結核のため、この曲が誕生した翌年、26歳の若さで亡くなった。会津坂下町では午後5時の時報を知らせる防災無線のチャイムに、この曲が使われている。