回想の戦後70年 漫画・特撮編−(5)ヒロイン最前線へ

 
【漫画・特撮編−(5)ヒロイン最前線へ】戦隊史上初の女性監督

都心のビルを背に、お気に入りのポーズをとる荒川さん。「なんの特技もない私がよく監督になれたなと思う。キャラクターものに強い監督として作品を撮っていきたい」

 1975(昭和50)年。特撮ヒーロー番組「秘密戦隊ゴレンジャー」のテレビ放送が始まった。複数のヒーローが活躍する特撮の新ジャンル「戦隊モノ」の第1作だ。同時に、時代と共鳴するように、ヒロインが初めて前線に立った作品でもある。

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 敗戦間もない45年10月、連合国軍総司令部(GHQ)は、当時の幣原内閣に五大改革を指示した。その一つが「婦人の解放」。翌年公布された日本国憲法は男女平等を明文化。46年の戦後初の総選挙では、初めて婦人参政権が行使された。だが女性の社会進出には時間がかかった。

 約30年後の75年。法政大を卒業し県庁に入って3年目だった吉川三枝子さん(66)=元県北地方振興局長=は、職員労組の婦人部員として、女性職員のための「係長試験」対策の学習会を開き講師を務めていた。

 「当時、県庁内に女性の管理職は皆無。高卒資格で入庁した職員が係長に就くには、係長試験に合格しなければならなかったが、女性は受験しない--という空気があった」。そんな状況を変える試みが学習会だった。

 この年は「国際婦人年」。日本女子登山隊の副隊長で当時35歳だった田部井淳子さん(75)=三春町出身=が、世界最高峰のエベレスト(中国名チョモランマ)の登頂に女性で初めて成功した年でもある。

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 特撮番組の新ヒロインは、そんな「女性の年」に登場した。5人組の秘密戦隊ゴレンジャーの唯一の女性メンバー「モモレンジャー」。特撮ヒーローと時代との関係を論じた著作がある読売新聞東京本社の鈴木美潮編集委員(50)は、それまでの添え物的な女性の登場人物とは全く違う「画期的な存在だった」と振り返る。「おしゃれで、なによりヒーロー(男性)たちと対等。ヒーロー側も、仲間として信頼している感じがした」

 以降、ヒーローたちの中にヒロイン1人が加わる紅一点の様式が特撮番組では定着する。しかし、鈴木さんは、この「紅一点主義」の限界も指摘する。

 「結局、一つしかない女性の席に座るのを認められたのは、男性並みに働く女性だけだった。同時に、お茶を出すとか、ちょっとした気配りも求められた。女性が一定の数に達するまでの間、組織で求められたのは、仕事中心の男性の論理に従える女性だった」と、フィクションに投影された当時の社会のありようを分析する。

 特撮のヒロインたちは、その後、84年の番組から2人に増え、個性の幅を徐々に増す。現実社会では翌年、女性社員を差別的に取り扱うことを禁止する男女雇用機会均等法が成立した。吉川さんは「県の高卒相当職にあった男女別の採用枠が、この法の施行でなくなった」と同法の影響の大きさを振り返る。

 それから30年。国などの調査では近年、国内の女性課長職の割合は5〜6%。鈴木さんは「女性の地位は『そこそこ』で止まっている」と言う。だが、男社会へのヒロインたちの切り込みは続く。

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 戦隊番組の制作現場で長く助監督を務めた、いわき市出身の荒川史絵さん(35)は昨年、Vシネマ「行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー夢の超トッキュウ7号」(東映ビデオ)で初めて監督に起用された。戦隊モノでは初の女性監督誕生だった。

 高校時代に特撮番組の制作にあこがれ、大学4年のとき、この世界に飛び込んだ荒川さんは当時、まさに「紅一点」。ほぼ男性だけの現場で、ロケや小道具の準備など、朝4時から深夜近くまで続く激務に耐えた。

 30歳前後のころ、監督を依頼する声が掛からず「女性だから依頼されないのか」と悩んだが「戦隊史上初の女性監督だけは譲れなかった」と言う。ただ、作る映像の個性に「女性だから--という部分は意識しない。戦隊モノでは(マスクをかぶり)表情のないキャラクターが、すごく豊かな芝居をしてくれる。その魅力を撮りたい」と意気込む。

 ヒロインたちは今、性別の垣根をしなやかに越えようと走り続ける。

 女性幹部の割合 鈴木美潮著「昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか」(集英社クリエイティブ)によると「戦隊シリーズ」(38作品)に登場する悪の組織における幹部の女性が占める割合は約28.4%。ヒーロー側の女性の割合は約26.8%で、ともに約3割。これに対し日本の職場で課長相当職以上の管理職全体に占める女性の割合は6.6%(2013年度厚生労働省調べ)。安倍政権は2020年までに指導的地位に占める女性の割合を30%にする目標を掲げており、特撮の現場では、悪も正義もこの目標値に肉薄している。