回想の戦後70年 漫画・特撮編−(7)ゴジラ

 

 ガイガーカウンターで放射線量を測るシーン、せりふでは「ストロンチウム90が--」と放射性物質の名前が語られる。東京電力福島第1原発事故を経験した県民には、いや応なく目に焼き付いたような場面。しかし、これは震災後ではなく、1954(昭和29)年に公開された映画「ゴジラ」のワンシーンなのだ。

     ■

 54年3月1日、静岡県焼津市のマグロ漁船・第五福竜丸が、米国により太平洋に設定された航行禁止区域の外側、ビキニ環礁で操業中に同国の水爆実験に巻き込まれて被ばくし多量の放射性降下物「死の灰」を浴びた。後に1人が死亡、放射能汚染されたマグロの廃棄に加えて風評被害も起きた事件で、全国に原水爆禁止署名運動が広がった。

 海底に潜んでいた太古の生物が、水爆実験の影響で安住の地を追われ、人間社会に襲い掛かる--。それがゴジラだ。映画は全国にゴジラブームを巻き起こし、後に「特撮の神様」と呼ばれる須賀川市出身の特撮監督円谷英二(1901〜70年)の名は、全国にとどろいた。英二53歳だった。

 英二が兄のように慕った叔父円谷一郎の孫に当たり、英二の生家で現在は大束屋珈琲店を営む誠さん(55)は、「61年には『世界大戦争』という核戦争をテーマにした映画を作っている。原爆や核戦争などのテーマにこだわっていたようだ」と、一冊の本を手にしながら話す。59年に発行された「原子力『平和利用記録写真集』」。原子力に関する基本的な知識がまとめられた本で、英二は繰り返し読み、勉強していたという。

 県内でも、核実験で世界中に広がった放射性物質が雨に混じっているから、子どもは雨に当たるなと言われた時代だった。 第1作の後は、55年「ゴジラの逆襲」、62年「キングコング対ゴジラ」、64年「モスラ対ゴジラ」などゴジラと怪獣の対戦が銀幕の中で繰り広げられた。英二が70年に亡くなった後も、メカゴジラやハリウッド版ゴジラが登場。その時代ごとの社会問題を背負いながら進撃するゴジラの前で、ファン層は子どもから大人まで、日本から世界へと広がった。

     ■

 2004(平成16)年、郡山市立美術館で「ゴジラの時代展」が開かれた。ゴジラが社会の中でどのように変貌を遂げてきたかを振り返りながら、また、造形という視点からも希有(けう)な怪獣ヒーローを取り上げた。展覧会に関わった同美術館主任学芸員の杉原聡さん(47)は「来場者の年齢層は幅広く、海外から来場した方もいた」と振り返る。

 会場には関連資料として第五福竜丸平和協会所蔵のガイガーカウンターも展示された。「初代ゴジラが公開された時代は米ソ冷戦で、戦争の影が見え隠れする時代だった。人間が作り出した科学技術で目覚めたゴジラが街を破壊していく。原発事故があり、あらためてゴジラの存在が注目されるのは、私たちにさまざまなテーマを投げ掛けているからではないか」と話す。

     ■

 もし英二が生きていたら、原発事故をどう映画にしていただろう。英二は戦時中、国策として42年の「ハワイ・マレー沖海戦」など、戦意高揚映画の特撮を手掛けたことから、終戦後は公職追放によって一度、東宝を退職した。

 誠さんは、英二が叔父一郎に宛てた手紙に『一犯罪者として今後指導的な仕事が出来なくなったれば、映画なんかあっさり捨てて見事に転身する覚悟で己に玩具製作を開始しています』と書いていたことを明かす。

 「淡々としたところがあったんだろうと思う。原発事故があったからといって『そら見ろ』というような映画を作る人ではないと思う」と誠さんは思う。

 戦後間もない時期に、英二らが制作した数々の特撮映画作品は、今見ても色あせない。むしろ今だからこそ、あらためて見たい映画ばかりだ。60年以上の時を超えて、英二ら撮影班のメッセージは力を持ち続けている。

 ゴジラ 1954年に公開された映画「ゴジラ」から現在まで続くシリーズ作品となった怪獣。55年の2作目からは怪獣対決の形を取るようになり、次第に人類の味方に変化、子どもたちのヒーローとなっていく。54年版は監督が本多猪四郎、原作香山滋、プロデューサー田中友幸、特殊技術円谷英二、主演宝田明、河内桃子、平田昭彦、志村喬。音楽は伊福部昭。人間が怪獣の着ぐるみを着て演技する技法を取り入れた。