回想の戦後70年 スポーツ編−(4)ゴルフ

 

 2016(平成28)年夏、ゴルフがリオデジャネイロ五輪で実施競技に復帰する。日本や韓国などアジア勢が世界に進出、国内でも競技の大衆化、産業化を背景に高い人気と注目度を誇る。女子プロゴルフでは今季、ツアー賞金総額が史上最高となった。国内ツアーを運営し女子プロゴルファーの地位向上に貢献してきたのが、日本女子プロゴルフ協会だ。設立は1974(昭和49)年。そこには、本県の一人の女性が大きな役割を果たしていた。

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 同協会の初代理事長、第2代会長を務めた二瓶綾子さん(78)=福島市。「好きなこと(ゴルフ)をやっていたから苦労を感じなかった」と振り返る二瓶さんの仕事は、会員募集からプロテストの実施、協賛企業の募集まで多岐にわたった。プロゴルファーとしても、理事長を務めながら75年の日本女子オープンで優勝するなど活躍した。女子プロゴルフ黎明(れいめい)期を支えたゴルファーが誕生した背景には、本県でも戦後進められたゴルフ場の整備があった。

 本県でゴルフが行われたのは24(大正13)年、昭和天皇、香淳皇后が皇太子夫妻として猪苗代湖畔を新婚旅行で訪れた際、会津若松市の鳥狩原に急ごしらえした仮設コースで昭和天皇が楽しんだのが初めてとされる。

 しかし、戦争はスポーツを楽しむ環境も奪った。県内で新たにゴルフ場を整備する動きが表面化したのは、52(昭和27)年にサンフランシスコ講和条約が発効、厳しい生活でも平和が実感できるようになってからだ。

 54年、浜通り南部の三和村(現いわき市三和町)に、県内では戦後初のゴルフ場となる水石山ゴルフ倶楽部がオープンした。ただ、県立公園でのゴルフ場としての利用に反対意見が出され、開場からわずか10年で県に返還され短命に終わる。

 それでも同倶楽部のオープンは県内関係者に大きな刺激となった。ゴルフ場が必要という機運が高まり、57年に吾妻高原ゴルフクラブ(福島市、現在は閉鎖)がオープン。63年には昭和天皇ゆかりの地に会津磐梯カントリークラブが本格オープン。64年に県ゴルフ連盟が設立されると、その後、県内に次々とゴルフ場が増えていった。

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 二瓶さんがゴルフと出会ったのは57年、20歳の時だ。実家近くに吾妻高原ゴルフクラブがオープンしたばかりで、スタッフを募集していた。母親からの薦めもあってキャディーを始めた。プレーヤーは大企業の社長や地元の富裕層が大部分で、女性プレーヤーもほとんどいなかった。しかし、ゴルフの魅力に触れると、すぐにとりこになった。「自然を愛する私にとって(ゴルフとの出会いは)運命だった」と二瓶さんは今も思う。

 県内で競技環境が整うのと歩調を合わせるように、二瓶さんが女子プロゴルファーとして育ち、さらに日本女子プロゴルフ協会設立につながっていった。

 女子プロの海外ツアーで5勝するなど世界に名をとどろかせ、現在は同協会長を務める小林浩美さん(52)=いわき市出身=は「二瓶さん以来、福島県で2人目の会長となれてうれしかった」と二瓶さんの功績をたたえる。

 一方で「活躍する福島県出身の選手がまだ多いとは言えない」とみる小林さん。「小学生世代に、もっとゴルフが広まってほしい。都市部より地方の方がゴルフ場に行きやすい環境にある。酒井美紀選手(24)=いわき市出身=のように良い目標がいれば、県全体でゴルフの裾野が広がる」と話し、本県など地方の競技環境の充実を背景に、若年層のゴルフ人口を拡大したいと意気込む。

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 二瓶さんらが築いた基盤は次世代に受け継がれ、アマチュアでも蛭田みな美選手(18)=学法石川高3年=が今年の日本ジュニア選手権を制するなど、大きく実を結ぼうとしている。二瓶さんも「酒井美紀選手は昨年、初優勝してから、自信を感じられるようになった」と若手プロの活躍に目を細める。小林さんをトップに女性ゴルファーたちが国内外に羽ばたける環境が、東京五輪を前に本県の強みになるのかもしれない。

 二瓶 綾子(にへい・あやこ)1937(昭和12)年、福島市出身。庭塚中卒。67年に第1回女子プロテスト合格。74年の日本女子プロゴルフ協会設立に尽力、初代理事長に就く。87年に2代目の会長に就任し、現在は顧問。選手としては、75年の日本女子オープンなど国内ツアーで5回優勝した。

 小林 浩美(こばやし・ひろみ)1963(昭和38)年、いわき市出身。磐城女(現磐城桜が丘)高卒。89(平成元)年に日本女子オープンなど年間6勝(賞金ランク2位)。90年から米国ツアーに参戦した。国内優勝10回、海外優勝は5回。2007年に日本女子プロゴルフ協会理事、11年に会長に就任した。