回想の戦後70年 スポーツ編−(6)県勢初五輪メダル

 

 鍛え抜かれた体でバーベルを持ち上げ、世界の猛者たちと戦う男たちの姿が、敗戦で混迷し自信を失いかけた国民に勇気を与えた。日本ウエイトリフティングの黄金時代に、県勢で初めて五輪のメダルをつかんだ男がいた。東京五輪男子ミドル級銅メダリスト、大内仁。1964(昭和39)年10月、法大3年生で日本代表として東京五輪出場を果たした大内は、トータル437・5キロを持ち上げ、歓喜の表彰台に立った。

 大内がメダリストになった瞬間を会場の渋谷公会堂(東京)で見届けた県人がいる。県ウエイトリフティング協会常任顧問の三井省三さん(73)=いわき市=は補助役員として競技運営に携わり、県民が歓喜に沸いた瞬間に立ち会った。「表彰式で日の丸が揚がったんだ。良くやったと思ったよ」。三井さんのまぶたには、今でも大内の勇姿が焼き付いている。

 三井さんは当時、法大4年生で重量挙げ部の主将。大学の3学年上には東京、メキシコ両五輪フェザー級金メダリストの三宅義信がいるなど、この時代の法大重量挙げ部は「チーム世界一」と呼ばれた強豪だった。

     ■

 高校時代、全国に名をはせた選手がそろう法大の中でも大内の素質は抜群だったという。「東大以外は全ての大学が小名浜水産高にスカウトに来たんじゃないかと思うほどの評価だった」。三井さんも平工高で60年インターハイ・フライ級を制し、法大でも61年全日本選手権大会フライ級で優勝したトップ選手として、大内を法大に勧誘した一人だった。

 三井さんと大内は都内の寮で暮らし、技術と精神力を磨いた。「バナナはまだ高級品。食料が不足していた時代で、僕も大内も、合宿時は太るほどご飯を食べたんだ」。戦後復興を世界に示す東京五輪が迫り、大型工事が至る所で行われていた東京の片隅で、日本一、世界一を目指して練習に励み、励まし合う若者たちの姿があった。「大内は大学に入って一気に伸びた。力はものすごく強かったけど、筋肉の質が柔らかくて、本当にヘラクレスのような体だったな」。三井さんが青春時代を思い返す時、大内と切磋琢磨(せっさたくま)した日々がよみがえる。

 若き日の大内を忘れずにいる人が、もう一人いる。小名浜水産高の2年先輩で、元いわき海星高教諭の日下仁平さん(74)=いわき市。大内と出会ったのは、大内の高校入試の日。「先輩、この学校で重量挙げはできんのがい」。校庭を歩いていた日下さんに話し掛けてきた中学生が大内だった。「(郡山出身で)きつい中通りのズーズー弁だった。でも、やる気のあるやつが入ってくるんだと思った」

 日下さんは大内と一緒の寮生活で、夕食の時間に遅れて入ってくる大内の姿を覚えている。「よほど熱心に練習していたのではないか」。遊びで相撲をとると、立ち合いで思い切りぶつかってもビクとも動かなかった。後の五輪メダリストとの思い出は今も輝いている。

     ■

 56年メルボルン五輪に出場した古山征男(バンタム級8位)、白鳥博義(フェザー級5位)に始まった「重量挙げ王国・福島」の系譜は、大内の東京五輪・銅、メキシコ五輪・銀という二つのメダルを挟み、時代を超えて続いている。「誰もが夢見るスポーツの祭典でメダルを取った大内さんは、本県アスリートの誇りだ」。シドニー五輪ウエイトリフティング男子56キロ級代表の田頭弘毅さん(41)=いわき市=は偉大な先輩の功績をたたえる。

 田頭さんは勿来工高でウエイトリフティングを始めた。小柄だったが、地道な努力を続ける中で高校、大学、社会人と成績を伸ばし、ついに2000年シドニー五輪の代表の座をつかんだ。現在は会社員の傍ら、平工高でウエイトリフティング部を指導している。技術は当然だが、何よりも諦めない心の大切さを教える。「高校生までは良い成績を残す選手も多いが、五輪は諦めているのではないか。最後まで諦めないで頑張ってほしい」。大内ら先人の思いは次世代へと着実に受け継がれていく。