回想の戦後70年 スポーツ編−(7)自転車王国の軌跡

 
スポーツ編−(7)自転車王国の軌跡

自宅近くの「班目道場」で藤巻選手を指導する班目さん(右)=白河市

 ロンドン五輪の自転車競技会場。男子トラックのチームスプリントで日本競輪選手会の3人による日本チームは予選を通過、1回戦で地元英国との決戦に臨んだ。新田祐大(ゆうだい)選手(29)=会津若松市出身、白河高卒=が第1走者を担い、第2走者の渡辺一成(かずなり)選手(32)=双葉町出身、小高工高卒=らを引っ張る。しかし、大歓声の中で世界記録をマークした英国に敗れ去った。

 2012(平成24)年夏、自身初の五輪は悔しい8位入賞に終わった。「メダルを取って福島をアピールしたかった」。会津の男の頬を涙が流れ落ちた。

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 新田選手の古里・会津若松市では今年、あちこちに旗が掲げられている。「鶴ケ城再建五十周年」。9月には記念式典が行われる鶴ケ城だが、再建される以前、65年前の本丸跡で競輪が行われていたことを知る人は、市内でもそう多くはない。

 1948(昭和23)年に成立した「自転車競技法」は、戦後の経済的困窮にあえぐ地方自治体に財源を与える狙いがあったとされる。新制中学を柱にした義務教育制度の改革が財政窮迫に拍車を掛け、現実的な解決策として競輪が選ばれた。

 会津競輪場は50年4月9日に開場。県営とはいえ収益は県と市が二分する仕組みで、市財政の立て直しに大きな役割を果たしたのは言うまでもない。競輪への市民感情は穏やかなものではなかったが、多くの非難を受けながらも学校整備は進み、新しい中学校舎の落成が続いた。

 プロ競技は過酷さも伴ったようだ。「落車して血だらけの選手を見たことがある」。会津坂下町の光照寺住職和田至紘(しこう)さん(74)は、少年時代に目にした痛々しい選手の姿を記憶している。和田さんは、おばが車券売り場で働いていたこともあり、よく遊びに連れて行ってもらった。競輪の予想が当たった大人から、駄菓子やミカンなどのおやつをもらえることもあった。

 同市で出版社を経営する市職員OBの阿部隆一さん(84)も、若き日の記憶をたどる。「カーンという鐘の音は会津高まで聞こえた。競輪のある日は若松の内外から人が集まって町中は人でいっぱいだった」。当時の活気が思い浮かぶ。

 会津競輪場は64年に幕を閉じた。資料をめくれば「会津若松市にとってやむを得ない敗戦の落とし子だった」という記載もある。ただ、多くの教育施設の整備費が、自転車を操る男たちの健脚によって生み出されていたのは事実。また、自転車競技の迫力は、市民に勇気とエネルギーを与えたに違いない。

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 会津人の遺伝子を受け継いだ新田選手は、白河高に進んだ。白河市周辺は「自転車王国」と称される本県の中でも選手育成の拠点。「白河の高校に熱意と経験がある指導者がいたおかげで、福島から五輪選手が育った」と元五輪日本代表監督の班目(まだらめ)秀雄さん(71)=白河市=は語る。自身も64年東京五輪に出場。指導者としては04年アテネ五輪・銀メダルの伏見俊昭選手(白河実高卒)、ロンドン五輪出場の新田選手らを育てている。

 班目さんによると、本県で自転車が盛んになったのは2人の指導者、白河高の大島正夫、白河農工(現白河実)高の吉田八郎が60年代に自転車部顧問に就き、熱心に教えたことが大きい。「そこで育った選手が、県外の大学や実業団で経験を積み、県内の高校指導者として戻ってきた」

 故人となった両氏の教え子たちが80〜88年の国体自転車競技で本県の9連覇を支え、さらにその教え子たちが現在、県内の高校自転車部で生徒たちを指導している。

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 「新田は決して天才ではないが、最初はうまくできなくても、我慢強く努力し続けられる」と新田選手を評価する班目さん。班目さんが課した課題に粘り強く取り組む新田選手の姿を見守ってきた。「涙を流しながらでも目標に向かって頑張れる意志の強さが、『会津人』らしさなのかな」

 師匠は現在も自宅近くに練習場を開設し、若い選手たちを指導する。"班目道場"には今夏、会津坂下町出身の女子選手藤巻絵里佳さん(19)=会津高卒、日本競輪学校=も訪れて自転車王国の系譜に名を連ねた。

 一方、弟子の新田選手は今年3月、競輪の日本選手権で優勝、来年のリオデジャネイロ五輪の選手選考に名乗りを上げた。苦境に陥るたびにはい上がってきた会津人らしく、スポーツ魂に再び火をともそうとしている。