回想の戦後70年 食編- (5)マミーすいとん

 

「すいとんは、命と人をつないでくれた」と郷土料理に感謝する片寄さん

 日本サッカー界で初のナショナルトレーニングセンターが1997(平成9)年、楢葉、広野両町境にオープンした。サッカー男子日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督(当時)をはじめ代表選手らが合宿で足を運んだ。天然芝ピッチで汗を流した後、選手たちはある郷土料理に舌鼓を打った。ここで力をつけ、英気を養った日本代表は2002年日韓ワールドカップ(W杯)で、日本代表として最高成績のベスト16に入り、日本中のサッカーファンを魅了していく。

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 「古里(フランス)の祖母が作るスープの味に似ている。マミー(おばあちゃん)の味だ」。99年3月、Jヴィレッジで合宿中のトルシエ監督は「ならはのすいとん」を食べて感激、「マミーすいとん」と命名した。

 マミーすいとんは、楢葉町の有志でつくる「ならはのすいとん研究会」がこしらえ、県内外の多くの人々の口に運ばれた。東日本大震災の直前まで多くのイベントで振る舞ってきた一人、同町井出の片寄俔子さん(79)=いわき市へ避難中=は当時を思い出す。「『うまい。うまかった!』と料理を出す先々で言われ、うれしかったなぁ」。町の味が多くの人の舌をうならせ、名物となる姿を見てきた。

 水で練った小麦粉の生地を小さな団子に手びねりして実にした汁の料理「すいとん」。片寄さんはすいとんを「おつけ(みそ汁)だんご」と呼ぶ。「おつけだんごは、昔からどの家庭でも作って食べていたよ」。すいとんは「母の味」の郷土料理。戦中戦後の食糧難の時代には庶民の耐乏生活を支えた。
 戦時中、当時9歳だった片寄さんの家の食卓には、すいとんが毎日並んだ。「白いご飯なんて食べられなかった時代で、団子を入れた汁に大根や菜っ葉、何でも入れて鍋の底をなめるまで食べていた」と振り返る。

 7人きょうだいの大家族で、食には苦労した。母親は子どもたちの腹を満たそうと、畑で小麦を栽培。収穫した小麦を餅臼でたたき、粉にした小麦粉を団子にした。今のような真っ白ではなく、黒っぽい団子だった。貴重だったみそ、しょうゆが手に入らなかったため、ざらめのような塩で味付けした。「味なんて覚えていない。とにかく量があって、腹いっぱいになればよかった」

 片寄さんは「おつけだんごで育ち、マミーすいとんで友達の輪が広がった」と、すいとんに感謝する。

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 Jヴィレッジを造ったのは東京電力で、県に寄贈された。98年には常磐道で最寄りの広野インターチェンジを含む、いわき四倉―富岡間が着工、高速交通から取り残された双葉郡にも光が見えていた。一方、東電は、原発の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出して再利用するプルサーマルを福島第1原発で計画したが、議論はスローペース。同原発7、8号機増設も停滞。地域振興策は双葉郡南部の勢いが目立っていた。

 トルシエ監督にすいとんを勧めた一人で当時、楢葉町商工会の副会長だった斉藤香さん(64)=町商工会事務局長=は、地元のレストランなどで提供できる特産品作りを模索していた。古くから親しまれていた「すいとん」に思いが至った。

 「ならはのすいとん創作料理コンテスト」を99年に開催。グランプリに輝いたのは、斉藤さんの母百枝さんと猪狩トシエさん。2人の味をトルシエ監督に勧めた。「自分にとってはおふくろの味。トルシエ監督をはじめ、多くの人に喜んでもらえる名物となった。うれしかった」

 B級グルメブームより早くイベントの花になり、パック詰めの土産品も開発されたマミーすいとん。しかし、震災と原発事故の避難をきっかけに担い手不足に陥った。被災した子どもの中には、4年半の長期避難により古里の記憶に乏しく、郷土の味にも親しみの薄い子がいる。斉藤さんは「将来の子どもたちのためにも、マミーすいとんを残していかなければならない」と誓う。国は5日、同町の避難指示を解除した。マミーすいとんも次の時代へと再スタートを切ったばかりだ。

 ならはのすいとん研究会 初期メンバーとして楢葉町内の有志28人で結成。「ならはのすいとん創作料理コンテスト」でグランプリに輝いた斉藤百枝さん・猪狩トシエさん組のすいとんを楢葉の味とし、道の駅物産フェアなどをはじめとする県内各地のイベントで販売した。東京で開かれた県人会や宮城県の全国はっとフェスティバルなどでも振る舞い、町の味を全国に広めた。2001(平成13)年から土産品として、すいとん粉とつゆをセットにした「mammyすいとん」の販売も始まり、町の特産品へと押し上げた。

 Jヴィレッジ 1997(平成9)年に日本初のサッカー・ナショナルトレーニングセンターとして楢葉、広野町に開設。W杯サッカー日本代表をはじめ大会や合宿などで、多くのチームが利用した。2006年度開校のJFAアカデミー福島は、同施設を練習拠点に世界水準のアスリート育成に取り組み、女子日本代表やJリーガーを輩出、日本サッカー界の発展に貢献してきた。現在は東京電力福島第1原発事故収束の拠点となり、全ての業務を停止している。18年7月に一部施設、19年4月には全面的な再開を目指して準備が進められている。