回想の戦後70年 食編- (6)メヒカリ

 

「いわきの魚としてのメヒカリの認知度を継続させたい」と話す鈴木さん

 江戸初期の寛文年間(1661~73年)に磐城平藩主の命で編さんされた、いわき地方最初の地誌「磐城風土記」には、当時の磐城産の魚が記されている。カツオ、イワシ、サケ、アンコウ、マグロ、フグ、カレイなどの魚が列挙される一方、「メヒカリ」の名前はない。

 大正時代、いわきでもトロール網漁が始まると、かまぼこの原料になる白身魚など多種多様な魚が水揚げされるようになった。メヒカリはこのころから漁獲された魚と言われるが、戦前は漁獲量は少なかったという。増えたのは終戦後。底引き網漁の副産物的な存在だった。

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 「猫またぎ」。いわき市内で年配の人に話を聞くと、メヒカリをこういう言葉で例えることがある。魚が大好物の猫もまたいで素通りするほど価値のない魚という意味だ。「かつては二束三文にもならない、いわゆる『雑魚(ざこ)』だった」。寿司れすとらん割烹小太郎社長でメヒカリをこよなく愛す、いわき調理師会長の鈴木正継さん(56)=同市小名浜=は振り返る。

 鈴木さんによると、メヒカリは1キロ当たり200円程度しか値が付かないため、小名浜などの漁師の家庭では、天ぷらやから揚げなどとして自家消費することがほとんどだった。「身は淡泊だけど、脂が乗り、柔らかい食感が特徴で、小名浜の人たちには親しまれていた」

 沿岸部だけで愛されてきた魚は、冷蔵・冷凍技術に加え、交通手段も飛躍的に発展すると、その知名度と需要が市内外で同時に高まり始める。消費者は安くておいしい魚に気付き、食卓に欠かせないものになった。

 品薄で価格も上昇した。鈴木さんは「現在は1キロ2千円程度になり、料理を提供する立場としては痛手。だけど、郷土の味が有名になったことは感慨深いね」と苦笑いする。

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 戦後、時代の変遷とともに魚としての「地位」を駆け上ったメヒカリは、ついに「市民権」を得る。2001(平成13)年10月、いわき市の市制施行35周年を記念した事業で「市の魚」に制定された。制定の際に選考委員長を務めたアクアマリンふくしまの安部義孝館長(74)は「市民アンケートで一番多かったのがメヒカリで、カツオ、サンマと続いた。委員長裁定となったが、市民の思いをくみ、メヒカリに決めた」と明かす。

 200カイリ規制などで漁場が縮小し、北洋サケマス漁など遠洋漁業の漁獲量が減少。沖合漁業で補わなければ、市内の水産業者は生きていけない時代だった。その沖合漁業の漁獲量にも陰りが見えた中で、安定的な漁獲量が計算できるメヒカリは「市の魚」にふさわしく、漁業者に恩恵をもたらす魚だった。

 「市の魚」を食材とした料理コンテストも開かれ、鈴木さんが考案した「メヒカリのひすい揚げ」は最優秀賞を受賞した。小麦粉とかたくり粉を1対1で混ぜた粉を使うことで「さくさく感」を追求した。「メヒカリの柔らかい身はさくさくの衣で包んでこそ、生きてくる」と鈴木さんはこだわりを見せる。

 現在も店の人気料理だが、原発事故後は他県産に切り替えた。「小名浜産は脂の乗りも良く、味もいい。いずれは小名浜のメヒカリを提供したいが...」。鈴木さんは声を詰まらせた。

 原発事故で地元産メヒカリの漁獲量は激減した。しかし、メヒカリの食文化を守り、次世代へつなぐ取り組みは途切れていない。いわき市の地場産の野菜や魚を販売する同市平の「いわき食彩館」は、メヒカリの料理教室を開くなど知恵を絞る。「いろいろな食べ方があることを多くの人に知ってほしい」。同社社長の松崎康弘さん(57)とマネジャーの金沢友絵さん(43)は口をそろえる。

 脂分が多く加工は難しいと言われたメヒカリだが、同社は薫製や炙(あぶ)りの加工食品を開発、人気商品として定着させた。「もっとおいしい食べ方があるはず。これからも地元の魚として大切にしていきたい」。松崎さんは「市の魚」に特別な感情を抱く。

 メヒカリ ヒメ目アオメエソ科の魚で標準和名は「アオメエソ」。メヒカリはいわき地方の方言。砂泥底にすむ雌雄同体の魚で、深海性で体長に似合わず目が大きく、眼球が青緑色に光って見えることが名前の由来。宮崎県なども産地で、大衆魚として親しまれている。休漁期間の7、8月以外は捕れるが、真冬の寒い時期は脂が乗り、より美味と言われている。