【建物語】本宮映画劇場・本宮市 待ち続けた「復活の時」

 
住宅街の路地裏にひっそりとある本宮映画劇場。時を経て、あせたピンク色の壁は風格を漂わせる=本宮市

 「鬼滅の刃(きめつのやいば)」が大ヒットを記録する映画産業。かつて同じように多くの人に娯楽を届けた映画館が本宮市にある。JR本宮駅から徒歩5分、住宅街の路地裏にある「本宮映画劇場」だ。栄枯盛衰を経てあせたピンク色の壁は、何げなく立ち寄った人を引き付ける。

 歴史は大正時代にさかのぼる。館主の田村修司さん(83)によると、建てられた当時の名称は「本宮座」。旧本宮町の大地主で県議会議長や町長、衆院議員を務めた小松茂藤治(もとうじ)を中心に有志が集まり、歌舞伎座兼公会堂として、1914(大正3)年に木造3階建ての劇場が建てられた。

 「『定舞台(じょうぶでい)』と親しまれ、終戦後は芝居小屋だった。大衆演劇なんかを見せていて、梅沢富美男さんの父の劇団も巡業で来た」と修司さん。選挙演説や町の表彰式にも使われ、町民に親しまれていた様子が館内のモノクロ写真から伝わってくる。映画上映は、45年に修司さんの父寅吉さんが経営者となり、映写機を備え付けたことで本格的に始まった。本宮座から本宮映画劇場に改称されたのは、この時だ。

 最も繁盛したのは、町内の本宮駅前や昭代橋が撮影地となった55年公開の映画「警察日記」(日活)。「ロケ地だから東京の封切りと同時に上映させてくれた。月給1万円の時代に3日間で30万円を売り上げた」。劇場で働きだしていた修司さんは3階まで約1000人の客が入った当時を懐かしむ。

 しかし、いい時は続かなかった。60年代に入るとテレビの普及で映画は衰退。人を集めようと大人向けのピンク映画も上映したが、評判は良くなかった。「フィルム代も厳しくなった。『借金も軽いうちに』と思って」。63年、修司さんが27歳の時、閉館した。

 修司さんは車のセールスマンに転身。しかし、「定年後にまた人を入れて映画を見せたい」と捨てきれない夢が残った。約3年で借金を返すと、休日は館内にこもり、映写機に油を入れ、フィルムを手入れし、館内を清掃。銀幕に映画がよみがえる時を待って、命を吹き込み続けた。ただ、現実は厳しかった。定年を迎えた時は「浦島太郎のように周りは年寄りばかり。復活は無理だと思った」。

 治療の恩返しに

 70歳を過ぎ、館内の電気を止めようと考えた矢先のこと。「まだ映画見られるの? 見てみたい」。2008年、目の治療のため本宮で眼科医院を営む池田敏春さん(72)を訪れた時に掛けられたひと声だ。「治療の恩返しに」と修司さんは池田さんと看護師に見せるつもりで上映会の開催を決めたという。すると、「廃虚」とも思われていた建物が開くとあって、話題に。約150人が詰め掛けた。

 約半世紀、日の目を見なかったことでノスタルジックな雰囲気をまとった建物。国内にほとんどない貴重なカーボン式映写機による上映―。昭和にタイムスリップしたかのような上映会はニュースになり、映画ファンの間に広がった。「それまで、見学者なんていなかったが毎日のように来るようになった。取材も来て、この年で脚光を浴びるとは思ってもいなかった」と修司さんは笑う。

 現在、映画館では年に2~3回、上映会が開かれる。修司さんは日々の手入れを欠かさない。「ずっと空っぽだった場所に人が入ってくれるのはうれしい。映画は自分の生きがい」。館主とともに映画館は生き続けている。(佐藤智哉)

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 本宮映画劇場 正面は石造りのような洋風の壁をした木造3階建て。2、3階は椅子がなく桟敷席。1~3階の立ち見で約千人が入った。2019年の東日本台風(台風19号)では劇場の一部が浸水したほか、保管していたフィルムが水没する被害を受けたがファンらの協力で修繕された。住所は本宮市本宮字中條9。見学希望者は同劇場(電話0243・33・1019)へ。

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