【建物語】客自軒・福島市 動乱の時代を見つめて

 
世良修蔵暗殺事件の一場面となった客自軒。明治中期以降「紅葉館」と名を変え、福島の歴史を見つめてきた=福島市民家園

 福島市民家園に移築復元されている町家建築の「客自軒(かくじけん)」。一般的にはあまり知られていないかもしれないが「世良修蔵」に関わりが深いと聞けばピンとくる人もいるだろう。幕末の福島藩城下(現在の福島市中心部)で起きた新政府軍の長州藩士・世良修蔵(1835~68年)の暗殺事件。その計画実行の密議や殺害前の尋問をした建物である。

 物騒な話から始まったが、客自軒は江戸時代から「ウナギ料理」を売りにした城下有数の割烹(かっぽう)旅館で現在の福島市北町に店を構え、元武士の井上家が経営した。明治中期に所有者が赤石家となり「紅葉(こうよう)館」と改名。割烹旅館から下宿業になり、1986(昭和61)年の解体まで利用された。

 密書きっかけに

 さて暗殺事件について「福島市史」「仙台戊辰史」などを参考に説明する。戊辰戦争中の1868(慶応4)年3月、新政府軍は会津藩征伐のため、奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府の一行を仙台藩に派遣。「下参謀(しもさんぼう)」という役職で同行したのが世良だ。総督府は仙台藩などに会津藩征伐を命じた。東北諸藩は会津藩に同情的で救済への動きを始める。強硬な世良は征伐を譲らない。閏(うるう)4月に仙台、米沢両藩が会津藩救済の嘆願書を出すが、世良は「会津藩は朝敵。賊は皆殺し」と意見し、嘆願を却下させた。傍若無人な振る舞いで反感も買っていた。

 閏4月19日、世良は福島城下の定宿「金澤屋」(現在の福島市北町)で手紙を書く。「奥羽は皆敵」とする援軍要請の密書だった。世良は福島藩士に薩摩藩士に届けるよう渡した。福島藩はこの密書の扱いについて仙台藩士・瀬上主膳に意見を聞くことにした。

 瀬上の定宿がここ客自軒だった。密書を見た瀬上は暗殺を決断し20日未明に仙台、福島両藩士で寝込みを襲撃。世良はピストルで応戦したが不発、2階から飛び降りた際、石で頭を打つ。捕らえられた世良は客自軒の中庭に連行され、尋問を受け、そのまま阿武隈川沿いで処刑された。世良の死は東北諸藩が新政府軍に敵対する同盟を結ぶ契機となり、戊辰戦争拡大の引き金となった。

 客自軒と金澤屋は通りを隔てて目と鼻の先だったが、今は当時の面影はない。暗殺の歴史を伝えるのは近くの長楽寺(同市舟場町)だ。世良が処刑された阿武隈川沿いにあり、処刑された世良を弔った経緯もある。戊辰戦争150年の節目となる2018年に約50年ぶりに慰霊の法要を行った。

 「開発が進んで街並みがすっかり変わった。寺の務めとして福島の歴史を後世に残したい」と中野重孝住職(68)。世良は今もなお悪名高く、東北にとって因縁の人物とされる。だが、中野住職は「世良だって動乱の時代の犠牲者。一昨年は世良の血筋の方が寺を訪ねてくれた。これからも等しく供養していきたい」と語る。

 河野広中が命名

 明治中期に「紅葉館」と名付けたのは、福島の自由民権運動の中心人物である河野広中だ。客自軒を利用しており、中庭のモミジ(現存)から名付けた。ここで高校時代まで暮らしていた福島市在住の赤石克(まさる)さん(55)は両親から建物にまつわる歴史を聞かされ、福島の歴史を感じて育ってきた。「今も民家園に行って建物を眺めることがある。柱や壁などを見ると思いがあふれるんだ」と振り返った。

 移築復元された客自軒を前にすると、立地こそ違うが建物に刻まれた歴史の重厚さを感じずにはいられない。(国分利也)

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 客自軒 福島市有形文化財。平屋と2階建ての2棟。紅葉館時代に別の2棟が建てられたが解体された。市が1991(平成3)~92年に福島市民家園に移築した際、増築部分を除き幕末の客自軒の原形に戻した。明治前期に福島町議選投票所、河野広中が結党した「自由党福島部」定期会会場として使われた。毎週火曜休園。入園無料。問い合わせは民家園(電話024・593・5249)へ。

福島市・客自軒