【建物語】渋川問屋・会津若松市 先人の心、今に残して

 
渋川問屋が立つ七日町通りはかつて城下町の玄関口として栄え、今は多くの観光客でにぎわう

 城下町の西の玄関口として問屋やはたご、料理屋が軒を連ねた会津若松市の七日町通り。その象徴が会津の郷土料理を提供する渋川問屋だ。豪壮な木造の建物群が明治・大正時代の面影を今に伝える。

 しとみ戸の帳場

 創業は明治の初め。問屋の名が示す通り、海に面していない山国・会津で唯一の海産問屋だった。身欠きにしんや棒たらを扱い、身欠きにしんの東日本の相場は渋川問屋が決めたとも伝わる。最盛期には渋川家6家族、従業員50人余がここで生活し、繁栄を極めた。

 店ののれんをくぐる。日本酒やビールの名前が書かれた大きな木製看板が目に飛び込み、重ねた歴史を実感する。今では少ない格子状の「しとみ戸」がある帳場、大きな囲炉裏(いろり)、別館に向かう中庭など大店の雰囲気をとどめる場所は多い。

 「自家用貨物自動車や自家用オートバイをいち早く導入した際の写真も残る。かなり栄えたんでしょう」。会長の渋川恵男(ともお)さん(74)が語る。1975(昭和50)年に会津若松市公設地方卸売市場が開設され、渋川問屋は海産物市場としての役割を終えた。解体しボウリング場やビジネスホテルにする提案もあったが、「会津らしい建物を残したい」という渋川さんらの思いは強く、問屋の歴史は今に受け継がれた。

 バイパス開通などで一時は「シャッター通り」となった七日町通りだが、渋川さんらの発案で「観光客を呼び込もう」という挑戦が始まった。景観条例制定、七日町通りまちなみ協議会設立などを経て、レトロな建物の保存や修景が進められた。通りが一丸となった取り組みが実を結び、現在は年間約30万人が訪れる観光地に育った。

 木造の建物は東日本大震災の揺れにも耐えた。「蔵が大きく揺れ、もうこれで終わりだと思ったが、先人の知恵が詰まった建物は残った。残し続ける使命を強く感じた」。渋川さんは覚悟を口にする。

 渋川問屋のもう一つの物語。それは現在も残されている「憂国の間」にまつわる。名付けたのは作家・政治活動家の三島由紀夫だ。

 少年時代をここで過ごしたのは、渋川家の長男に生まれた渋川善助。日本の将来を憂えた皇道派の陸軍青年将校らが昭和維新断行を掲げ決起した1936(昭和11)年のクーデター未遂事件「二・二六事件」。善助はこれに関わり、民間人で唯一、死刑となった。

 格差社会憂えた

 善助は選ばれて御前講演をするほど優秀だったが、陸軍士官学校本科の卒業目前に教官と衝突、退校した。明治大で国家主義運動に関わり、その真っすぐな気持ちが二・二六事件へと向かわせた。

 渋川さんは善助のおい。「おじが帰ってくると家の中がピリピリしていた」。渋川さんは父や母から伝え聞いた逸話を語り「日本の格差社会を憂えていたようだ。食卓にごちそうが並べば『もっと粗末なものを食べるべきだ』と主張し周囲を困惑させた。清廉潔白というか質実剛健というか」と、善助の性格と二・二六事件との関係性を推し量る。

 死刑にはなったが善助を尊敬し憂国の間に手を合わせる人も多かった。三島のほか、松本清張ら多くの作家もこの地を訪れている。

 憂国の間に入ると、いとこのために書いたという十句観音経が目に飛び込む。最後に「直指道光居士」の文字。善助が生前に自ら付けた戒名だという。荒々しく力強い筆跡が、真っすぐな精神を象徴するかのようだ。善助はこの部屋で何を憂えていたのか。かつて眺めたであろう戸外の風景に答えは見いだせないが、建物とともに善助の思いは残っていると感じた。(伊藤俊憲)

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 渋川問屋 海産物問屋の店舗や蔵を活用した郷土料理店。大漁の間や洋風レストラン開化亭、蔵座敷、大広間などがある。別館での宿泊も人気だったが、現在は受け入れていない。会津若松市歴史的景観指定建造物。近くの阿弥陀寺には戊辰戦争の戦死者を埋葬した東軍墓地や鶴ケ城の貴重な遺構「御三階」もある。住所は会津若松市七日町3の28。問い合わせは電話0242・28・4000へ。

【建物語】渋川問屋・会津若松市