【建物語】陶芸の杜おおぼり・浪江町 帰る場所、ここにある

 
大堀相馬焼の物産館「陶芸の杜おおぼり」。正面の壁には「走り駒」を描いた陶板の壁画が掲げられている

 自然豊かな高瀬川沿いの浪江町大堀が、国の伝統的工芸品「大堀相馬焼」の古里だ。東京電力福島第1原発事故から丸10年を迎えた今も帰還困難区域のまま。町外に避難した窯元は事業再開や廃業など環境はさまざまだ。それでも大堀相馬焼の拠点施設「陶芸の杜おおぼり」は"陶芸の里"の象徴として在り続ける。

 大堀相馬焼の歴史は300年以上前の江戸時代中期にさかのぼる。大堀に住む相馬藩士・半谷休閑(きゅうかん)(大堀相馬焼の始祖)の使用人が作陶を習得し伝えた。相馬藩が特産品として保護、農家の副業となって一大産地に発展した。明治以降は藩の支援がなくなり産地間競争もあって窯元数は減ったが、震災前は20軒以上が伝統を守った。

 走り駒が目印に

 陶芸の杜おおぼりは2002(平成14)年4月にオープン。鉄筋コンクリート造り一部2階建てで、各窯元の作品が並ぶ展示コーナーや150人収容可能な陶芸教室、屋外に登り窯が設置された。大堀相馬焼協同組合が指定管理者として運営した。

 「一時帰宅するたび目に入る。大堀に帰ったと思える瞬間で、やる気と勇気をもらえるよね」。震災前後の10年ほど同組合理事長を務めた半谷秀辰さん(67)=二本松市で事業再開=は語る。半谷さんは半谷休閑の子孫で休閑窯の15代目だ。当時、組合が全国の類似施設を視察して構想を練り、陶芸の里にふさわしい施設を造り上げた。

 許可を得て取材に入った。目を引くのは大堀相馬焼の特徴の一つ「走り駒」を描いた巨大な陶板の壁画。作者は南相馬市の画家故・朝倉悠三さんで、前身の物産館「大堀民芸会館」で約1カ月かけ制作した。半谷さんは、朝倉さんの制作を補助し陶板を焼いて仕上げた。「朝倉先生は何度も馬を描く練習をした。その後、馬を題材にすることが増えたようだ。あの頃が懐かしい」と目を細める。

 立地場所は帰還困難区域だが、近くの県道いわき浪江線は特別通過交通が可能で、道沿いから陶板の壁画が目に入る。また、すぐそばには窯元の集落も見える。県内外に避難した窯元で事業を再開したのは半数の10軒ほど。いつかは大堀で作陶したいと考えている半谷さんは「今は陶芸の杜おおぼりが、大堀と窯元のシンボルだよな」としみじみ語る。

 当番でなくても

 震災前、陶芸の杜おおぼりのイベントといえば5月の大型連休中の「大せとまつり」と秋の「登り窯まつり」だった。大せとまつりは各窯元のブースが軒を連ね、新作を披露し、安価販売が人気だった。登り窯まつりは地域住民の作品を登り窯で焼き上げた。残念だが登り窯は地震で倒壊している。

 「大せとまつりは毎年にぎやかだったな。登り窯まつりは窯元が当番で窯に3日ほど張り付いた。当番じゃない窯元も夜集まって酒盛りを始めるんだよ。それが邪魔でね(笑)。今では良い思い出だ」。春山窯13代目で組合の現理事長小野田利治さん(59)=本宮市で事業再開=は当時を振り返る。

 浪江町は、大堀相馬焼の復興のため陶芸の杜おおぼりを再整備する計画で、周辺の除染作業を終えた。「道の駅なみえ」併設で20日に開所する地場産品販売施設にも展示販売や陶芸教室のブースを設けた。「まずは町内に大堀相馬焼が戻る第一歩を踏み出す。陶芸の杜おおぼりがにぎわう日まで窯元みんなで協力していく」と小野田さん。伝統を後世につなぐ誓いを立て前を向く。(国分利也)

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 大堀相馬焼 「青ひび」「走り駒」「二重焼」の特徴がある。青ひびは青磁全体に広がった模様のこと。走り駒は狩野派の筆法で疾走する馬を描く。二重焼は湯飲みにみられ、二重構造のため湯が冷めにくく持っても熱くない。原発事故の影響で上薬に使っていた浪江町内で採れる砥山石が入手困難となった。会津の県ハイテクプラザに代替材料を開発してもらい伝統を守った経緯がある。

【建物語】陶芸の杜おおぼり・浪江町