【建物語】和泉屋旅館・南会津町 時間旅行、まるで迷路

 
大通りで重厚な玄関を構え、ひときわ存在感を放つ老舗旅館「和泉屋旅館」

 国道121号(会津西街道)が走る南会津町田島地区の中心市街地には酒蔵や菓子店、飲食店が集まり、にぎやかな町並みが続く。大通りの中に重厚な丸みのある唐破風(からはふ)造りの玄関を構え、ひときわ存在感を放つのが老舗旅館の和泉屋旅館だ。

大火を経て再建

 江戸時代に幕府直轄の天領に定められ、その中心地として栄えた田島地区。会津若松市と栃木県をつなぐ会津西街道の主要宿場町として発展し、明治期には南会津郡役所が建設された。広大な面積の南会津地域。田島での宿泊需要は高かった。和泉屋旅館は1933(昭和8)年に創業した。2代目女将(おかみ)の小寺君恵さん(84)が「旅館ははやっていたはず。国鉄会津線の延長開通もあって父が始めたんだと思う」と創業の歴史を教えてくれた。

 しかし、創業翌年の5月、田島地区の市街地の西側半分を焼き尽くした「田島大火」によって旅館は焼失してしまう。当時はかやぶき屋根の建物が多く、新築されたばかりだった瓦屋根の和泉屋で延焼を食い止めようと懸命な消火活動が行われた。和泉屋は同年10月、地元大工たちの手によって元通りに再建され、現在に至る。田島地区は46年にも大火に見舞われ、古い町並みは失われた。「その後、道路が広く整備されるようになり、各町内では火伏の神様がまつられているの」。小寺さんはしみじみと町の変遷を語る。

進駐軍指定の宿

 館内を案内してもらう。味のある玄関や窓のガラスに目をやると、そこに映る自分の姿が屈折して見える。懐かしき昭和へとタイムスリップさせるかのようだ。玄関の扉を開け、まず目に飛び込んできたのは大階段。映画「蒲田行進曲」の"階段落ち"を連想してしまった。この先にある2階部分と奥まで続く1階の長い廊下の先には何が待ち構えているのだろうか―。

 「廊下は裏通りまでつながっているのよ」。小寺さんに導かれ廊下を奥へと進み、最初に案内されたのは意外にも洋室。聞けば戦後すぐに進駐軍の指定旅館となり、増築した部分だという。「(進駐軍は)南会津の山に隠されたとされる埋蔵金を探しに来てたらしいの」。当時、子どもだったという小寺さんが、聞いた話を教えてくれた。洋室のレトロな壁やアンティークは異国情緒を感じさせる。ベッドは病院から調達したという。木製の長机が配置された会議室では希少な調度品の数々に触れ、当時の熱気に思いを巡らせた。

 増築した洋室の2階部分には12畳半ほどの和室が広がっていた。「松平様のために造られたのよ」と小寺さん。小寺さんの家族が、会津藩主だった会津松平家に奉公していたことから設けられ、昭和20年代には初代参議院議長を務めた松平恒雄氏が利用したという。洗練された組子細工の障子など和室の隅々に会津らしいおもてなしの精神と緻密さが磨き込まれていた。

 「政治家が密談や選挙事務所として使うこともあった」という館内を探索すると、隠し部屋のような応接室や和室が現れ、不思議な迷路に迷い込んだような気分になった。「家族経営で運営は大変なの。誇り高いと言いたいけど、出るのは障子の"埃(ほこり)"よ」といたずらっぽく笑う小寺さん。気取らない人柄を慕って全国から通う常連も多く、実家に帰ってきたような心温まる唯一無二の場所だ。(中田亮)

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 和泉屋旅館 1933(昭和8)年創業。戦後に進駐軍の指定旅館となり、当時使用された応接室や会議室、洋間、価値ある調度品などが現存する。国の登録有形文化財。ビジネスマンや観光客など幅広い層から愛されている。現在、新型コロナウイルス感染拡大防止のため受け入れを一部制限中。住所は南会津町田島字上町甲4047。問い合わせは和泉屋旅館(電話0241・62・0048)へ。

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NHKラジオ第1「こでらんに5 next」で毎週木曜にコラボ企画

 建物語は福島民友新聞社とNHK福島放送局の連携企画です。NHKラジオ第1で毎週木曜日に放送される『こでらんに5 next』のコーナー「ふくしま見聞録」で紹介される予定です。