【建物語】中川家住宅・二本松市 憧れの洋館、距離近く

 
大正ロマンを感じさせる洋館。赤い瓦の腰折れ屋根が存在感を放つ

 赤い瓦がふかれた腰折れ屋根と白い縦長の窓、そして真っすぐにそびえる煙突―。住宅街にひっそりとあるが、西洋建築の意匠を凝縮した、しょうしゃなたたずまいは強烈な存在感を放つ。

 洋館は、市街地から国史跡の二本松城跡(霞ケ城公園)に向かう「久保丁坂」にある。息を弾ませながら坂を上ると頂上手前で目に入る。「なぜ、城下町にこんな建物が」と思わずにいられない。

 資料がほとんどなく、設計者などは詳しく分かっていない。ただ、戊辰戦争後の二本松の歴史と深く関わっているようだ。

複数の様式調和

 戊辰戦争で焼け野原となった二本松。旧藩士らが焼失した城内に製糸工場を興し、町の復興に取り組んだ。製糸業は「富国強兵」の国策もあり、米・ニューヨークにも生糸を輸出するほど栄えた。紡績や羽二重工場が操業され、銀行も進出し、経済的に復興を遂げた。

 だが、1918(大正7)年に本町大火があり、久保丁坂一帯は再び住家が焼失。洋館は大火からの再生が進む時期に建てられた。

 建てたのは二本松銀行頭取だった田倉孝雄。田倉は銀行業のほか、二本松羽二重工場や二本松電気会社の取締役を担った実業家。二本松町長や県議も務め、町の発展に貢献した人物だ。

 「来客や財界人をもてなす迎賓館として建てられた」。学芸員として市の文化財保護に携わった市都市計画課の佐藤真由美さん(50)は、建築の背景をそう推測する。久保丁は当時、安達郡役所などが集中した官庁街で、郡役所は洋館から250メートルほど下った今の二本松商工会議所の場所にあった。佐藤さんは「郡役所を訪ねた時、2階建ての洋館はかなり目立ったはず」とみる。田倉は洋館を通じて財力をアピールしたのだろう。

 それは建物の端々に見て取れる。洋館の外壁は、でこぼこした立体感のあるモルタルの「ドイツ壁」や、黒い木がうろこのように見える「シングル張り」など三つの様式を組み合わせた。壁や天井が漆喰(しっくい)で仕上げられた洋間の室内装飾には、四角いブロックが連なる「歯状飾り」や、古代ギリシャの柱頭建築に用いられた花模様「アカンサス」などが施されている。

 古民家調査のエキスパートで知られる尾道市立大非常勤講師の1級建築士渡辺義孝さん(55)=千葉県=は「デザインと様式は当時の定番だが、それらを統合し、調和させているのは見たことがない。たぐい稀(まれ)な設計者の力量が見て取れる」と絶賛する。

 その魅力は、建築からほぼ1世紀を経ても薄れていない。

カフェへと変身

 洋館は、43(昭和18)年に中川家が購入して大切に守られてきたが、数年前から空き家に。しかし縁あって今年3月に「8月カフェ」が開店した。テーブルや椅子などを買った以外は洋間をそのまま店舗として使い、手間と贅(ぜい)を凝らした母屋の和室をギャラリーとして活用している。

 来店者は大正時代にタイムスリップしたような空間で手作りの洋菓子などを味わい、癒やしの時間を過ごす。店主の吉村明美さん(57)は「年齢、性別に関係なくいろんな方が来たくなるようだ」と話す。

 「一度は入ってみたい」と思われながら、遠い存在だった洋館は今、誰もが親しめる場所になった。これからも多くの人の交流が生まれ、新たな息吹が吹き込まれることで、そのたたずまいはきっとこの地にあり続ける。(高橋裕三)

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 中川家住宅 1925(大正14)年に建築された洋館付き住宅。大正時代から昭和初期にかけ流行した建築様式で、木造平屋の和風建築の母屋に、木造2階建て洋館が付随する。敷地面積は約635平方メートル、延べ床面積は約220平方メートル。県教委が2010(平成22)年にまとめた近代化遺産の調査報告書でリストアップされた。住所は二本松市本町1の127の1。現在はカフェとして活用されている。

中川家住宅の地図

NHKラジオ第1「こでらんに5 next」で毎週木曜にコラボ企画

 建物語は福島民友新聞社とNHK福島放送局の連携企画です。NHKラジオ第1で毎週木曜日に放送される『こでらんに5 next』(休止の場合あり)のコーナー「ふくしま見聞録」で紹介される予定です。