【建物語】史跡慧日寺跡・磐梯町 祈りの空間、時超えて

 
史跡慧日寺跡に復元された金堂。手前には石敷き広場も広がり、約1200年前の光景を味わうことができる

 「青丹(あおに)よし」。そのたたずまいからは、奈良の都の繁栄を伝える万葉集の和歌が浮かぶとともに「諸行無常の響きあり」と平家物語の冒頭もよぎる。1200年の時を超え、現代によみがえった磐梯町の国史跡「慧日寺(えにちじ)跡」は、田園風景が広がる磐梯山のふもとの集落の一角にある。

 平安時代初期の807年に高僧・徳一(とくいつ)が創建。盛時は七堂伽藍(がらん)を備えたが、度重なる戦乱や火災で規模は縮小し、明治時代に廃寺となる。痕跡は色濃く残っていたが、月日の経過で山野に埋もれた。だが1970(昭和45)年の国史跡指定で光明が差す。町が発掘調査に着手し、東北最大級の"大寺院"が姿を現した。

 復元、苦難の連続

 徳一は謎多き人物だ。奈良で法相宗などを学び、20歳ごろに東国などで布教し、慧日寺を創建。会津を拠点にした間、最澄、空海と書状で論争・問答した。最澄とはののしり合いの大激論となるが、空海は徳一を民衆を救済する僧を指す「菩薩(ぼさつ)」とたたえた。

 平安初期の様式に基づく復元は地元の熱意があったから。国史跡指定により「古里の文化をよみがえらせたい」との機運は一気に高まった。町が伽藍中心部の南側は実物、北側は平面表示とするそれぞれの復元方針を定め国に許可を願い出た。2005年に文化庁から許可を得て、全国初の国史跡の中心建物の復元が始まった。

 ただ、発掘調査で建物の規模は分かっても、図面がないため構造は不明。苦難の連続だった。同時代の室生寺金堂(奈良県)を参考に専門家と検討を重ね、基本設計を練った。例えば屋根は徳一の出身地・奈良の寺院に多い「寄せ棟造り」で、瓦が一片も出土しないため、当時の地方の山間部に多かった厚めの板を重ねて使う「とち葺(ぶ)き」を採用した。町文化課長で磐梯山慧日寺資料館長の白岩賢一郎さん(57)は「苦労したが、復元によって古代建築の研究を深化させ、伝統技術の継承にも貢献できた」と振り返る。

 仏都の代名詞に

 寺の中心的な建築物「金堂」は3年をかけ08年、外部と神聖な場所「浄域」を区画する「中門」は2年をかけ09年に完成した。金堂前面に広がる石敷き広場も復元し、平安時代の「祈りの空間」をつくり上げた。白岩さんは「復元建物も時間が経過すれば文化財としての価値を持ち、仏都会津の一端を担っていくだろう」と期待を込める。

 何度も焼失の憂き目に遭った本尊の薬師如来坐像。これも東京芸大の協力で、平安時代の仏像や地域性を踏まえ創建時の姿を考察、3年をかけ18年に完成させた。政教分離の関係で「復元展示物」と呼ばれるが、分厚い体の表現、きりりとした表情、衣の紋様などの特徴を押さえ古めかしく仕上げている。往時の雰囲気を感じつつじっくりと眺め、手を合わせた。

 「歴史を正しく残すことで、町民が誇りを持ち、やがて町全体の発展につながる」。町幹部を経て03年から4期16年町長を務め、熱心に復元事業に取り組んだ五十嵐源市さん(72)は力を込める。「知恵と技を結集して復元された慧日寺は町の宝だ」 

 国史跡指定から半世紀で慧日寺は仏都会津の代名詞となった。復元事業は後世、必ず評価されるだろう。町はさらに復元を進めようと新たな計画を策定中だ。復元に町が力を入れる最新のデジタル技術を生かせるのではと思えた。諸行無常だからこそ、努力を続けなければならないのだから。(国分利也)

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 史跡慧日寺(えにちじ)跡 1970(昭和45)年に国史跡に指定され、磐梯町が史跡の保存や復元などを進めた。隣接の磐梯山慧日寺資料館で文化財や発掘資料などを展示している。開館は午前9時~午後5時(受け付けは午後4時30分まで)。開館期間は4月10日~11月30日(期間中無休)。入場料は史跡と資料館共通で一般・大学生500円、高校生以下無料。住所は磐梯町磐梯字寺西38。電話は0242・73・3000。

史跡慧日寺跡

 NHKラジオ第1「こでらんに5 next」で毎週木曜にコラボ企画

 建物語は福島民友新聞社とNHK福島放送局の連携企画です。NHKラジオ第1で毎週木曜日に放送される『こでらんに5 next』(休止の場合あり)のコーナー「ふくしま見聞録」で紹介される予定です。