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 ハンサム・ウーマン 
 
 可能性を追い続ける 新時代を切り開く


 新島八重(八重子ともいう)は、弘化2(1845)年11月3日、若松城の南西、米代二之丁、現在の会津若松市米代二丁目で生まれている。父山本権八は、百石の家柄で、会津藩の砲術師範をしていた。母は佐久子という。六人兄弟で長男は覚馬、三女が八重子(以後八重。武士階級の女子には子を付けるのが一般的)で弟三郎がいた。

 八重は、元治2(1865)年頃、会津藩校日新館の砲術教授、但馬(兵庫県)出石(いずし)藩出身で後に会津藩士となる川崎尚之助と結婚、戊辰戦争後に離婚している。

 平石弁蔵が書いた『会津戊辰戦争』に八重の手紙が載っている。それによると、八重は、子どもの時から男子のまねが好きで、13歳の時には、米四斗俵(60キロ)を4回肩まで上げ下げしたという。小さい時から男勝りであったようだ。また、砲術一家に生まれたことから、父権八や兄覚馬から自然と銃の扱いを学んだと思われる。

 八重の東隣に住んでいた伊東悌次郎(白虎隊士で戸ノ口原で戦死、後述)は、毎日熱心に家を訪ねてきたため、八重はゲーベル銃(先込め丸弾銃)を貸して教えていた。戊辰戦争の籠城戦では、七連発のスペンサー銃を使い、四斤山砲(よんきんさんぽう)の砲撃助手もした。夜襲に女性でただ一人加わったことから、フランスの国民的ヒロインにたとえられ、「幕末のジャンヌ・ダルク」といわれる。

「明日の夜は 何国の誰かながむらん なれし御城に 残す月かげ」

 鶴ケ城開城(9月22日)前夜、八重はこの歌を三ノ丸雑物蔵(現市営プール北東)に柄のある笄(こうがい)で刻んでいる。

 敗戦後、八重は明治3(1870)年、京都府顧問となっていた兄覚馬を頼り、母やめいの峰とともに京都へ行く。その後、覚馬を訪ねてきた新島襄は山本家に同居、八重と親しくなるのである。明治8年11月29日、襄は覚馬らの賛同を得て同志社英学校を開校。翌年9月19日、京都御所の北、薩摩藩邸約5800坪の現在地に校舎を建てた。

 八重は、明治女性の先駆者として新時代を切り開き、「ハンサム・ウーマン」とも、戊辰戦争の経験から日赤活動にも力を入れたため「日本のナイチンゲール」とも称された。襄との夫婦仲も良く、会津に来て宿泊、一カ月近く滞在している。明治15(1882)年7月のこと。また、昭和6年9月、会津若松市東山町の大龍寺に山本家の墓碑を建てているように、故郷会津への思いは、終生変わらなかった。

 昭和7(1932)年6月14日、京都の自宅で死去、激動の生涯を終えた。87歳。亡きがらは京都の洛東、新島家墓地に埋葬された。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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京都洛東の同志社墓地にある新島八重の墓。京都市左京区の南禅寺東の山頂にある。麓から徒歩で約30分

【2012年4月1日付】
 

 

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