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砲術、西洋通の覚馬 触発され素地育む
八重の父は、権八という。元は永岡繁之助といって、山本家の婿養子となり、母佐久子(佐久ともいう)と結婚して権八と改名、山本家六代目を継いでいる。藩の砲術指南役で石高は百石あったとされる。
山本家は、近江国出身の山本一族で、甲斐国武田信玄に仕えた軍師、山本勘介を先祖とする説もあるが、勘介の家紋は、左三ツ巴(ともえ)紋、八重の生家山本家は丸に四ツ目結の紋であることから異なる系統とみられる。
『諸士系譜』などによると、山本家が会津松平家へ仕えたのは、三代藩主松平正容(まさかた)公の時代、元禄8(1695)年のこと。当初、山本家は江戸に屋敷があり、現在の東京都・青山霊園南西に位置する長谷寺が菩提寺(ぼだいじ)だった。江戸時代後期頃に会津へ入り、郭内の米代四之丁に屋敷を構えた。この家は、戊辰戦争時の屋敷跡より西へ約100メートルの地点にあり、ここで八重が生まれた可能性もある。
八重の祖父と父は、二代続けての婿養子で、いずれも権八を名乗った。女系が続くという家柄もあり、母親の影響は相当に強かったと思われる。八重の男まさりで、男といえども物おじしない性格は、家系にも強く影響を受けているといえる。
兄弟は、男女三人の六人と伝わる。八重は三女とされ、兄に覚馬、弟に三郎がいた。幼少期の八重については、詳しい記録が残されていないことから、どのように育ったかは、はっきりしない。
兄覚馬は、文政11(1828)年1月に生まれている。日新館を出た後、松代藩士で兵学者であった佐久間象山(しょうざん)の門弟となり、砲術や蘭学を学んでいる。象山の門弟には、勝海舟、吉田松陰、長岡藩の河井継之助、坂本龍馬らがおり、幕末・明治維新、その後の日本に大きな影響を与えている。
覚馬は安政3(1856)年、日新館へ戻って蘭学所の教授となり、会津藩の砲術、西洋通として、藩内でも一目置かれる存在となっていた。八重と覚馬は、17歳離れていたが、兵学や蘭学に長(た)けた兄の影響の大きさは、想像に難くない。
偉大な兄に触発され続けた八重。京都へ行ってからは世界に目を向けて「ハンサムウーマン」といわれるように、大きく花開く素地は兄覚馬と、会津時代の家庭環境から派生していることは間違いない。
八重は、20歳となる元治2(1865)年に、覚馬の日新館の同僚で共に江戸で蘭学と兵学を学んだ、但馬(たじま)出石(いずし)藩(現在の兵庫県豊岡市)出身の川崎尚之助と結婚した。二人には子はなかったが、前述した通り、戊辰戦争の鶴ケ城籠城戦では、共に大砲を操り、大いに奮戦している。
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会津古城研究会長
石田 明夫
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「山本家之墓」。八重が昭和6年に整備した大龍寺の山本家墓所 |
【2012年4月15日付】
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