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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 砲術一家 
 
 白虎隊士に銃指導 米国製も扱い熟知


 八重の生まれた山本家は、石高が百石から百五十石(一石は米150キロ)程度の屋敷が並ぶ、米代四ノ丁(現在の会津若松市米代二丁目)に面し、間口は東西約20から30メートル、奥行きは南北に約50メートルの長方形をしていた。屋敷内に射撃練習場があったとも考えられるが、その場合でも周辺に迷惑をかけるため、実弾の射撃は、砲術場で実施していたと思われる。

 『会津戊辰戦争』によると、八重の話として「兄覚馬は、砲術を専門に研究していたので、私も兄に一通り習った。当時、白虎隊は、仏国(フランス)式教練をやっていたので、射撃の方法は良く知っていたが、それでも(隊員らは)時々射撃の事で遊びに(射撃を習いに)来た」とある。

 年齢が若い白虎隊士は、鶴ケ城内三ノ丸や猪苗代湖岸西の大野原において、軍事教練をしていた。隊員は射撃の方法は知っていても、熟練していなかったため、八重の家に来て、指導を受けることもあったようである。八重も弟三郎と年齢に差のない白虎隊士を弟のようにかわいがり、砲術以外でも面倒を見ていたと思われる。

 八重は、普通の女子とは異なり、砲術一家に生まれたため、小さい時から自然と武器に触れたために興味を持ち、兄覚馬から直接、射撃の指導を受けたようである。そのため、銃の扱いは藩士の男子よりも詳しく、また八重自身も楽しかったに違いない。

 八重の回想をまとめた『男装して会津城に入りたる当時の苦心』によると、「元籠七連発銃を肩に担いで(鶴ケ城に)まいりました」とあることから、当時は高価で新式銃であったアメリカ製の元込めスペンサー銃(長さ1.2メートル、重さ約4キロ)など、さまざまな銃が家にあり、それぞれ扱いにも慣れていたようである。

 『会津戊辰戦争』によると、八重の家には、東隣の白虎隊士伊東悌次郎が毎日家に来ていた。また、「私はゲベール(ゲーベルともいう)銃を貸して、機(はた)を織りながら教えた」「最初の5、6回は(悌次郎)引鉄(ひきがね)を引く毎(ごと)に、雷管の音で眼(め)を閉じるため、その都度、臆病、臆病と私に叱られた」とある。八重は、悌次郎が来ても機織りの手を止めなかった。銃の扱いもできたが、家計を支えるため、女性として家内の仕事もしっかりと務めていた。

 会津藩の砲術場は、天守閣から南東に約1.2キロ離れた小田山西麓にある。的は、戦国時代に会津の領主であった葦名直盛(あしななおもり)公の母、金峯尊公(きんぽうそんこう)大禅定尼の墓を改修した土壇である。ここで八重は、白虎隊士に実弾射撃の訓練をしていたことであろう。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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砲術一家
「会津藩砲術場跡」。市道から約100メートル離れ、時折弾も見つかる

【2012年4月29日付】
 

 

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