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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 日新館と一度目の結婚 
 
 砲術隊士らを指揮 頼もしい夫尚之助


 前述した通り、八重は会津時代の元治2(1865)年ごろに一度結婚している。相手は、但馬国(たじまのくに)出石(いずし)藩(現在の兵庫県豊岡市)出身の川崎尚之助(しょうのすけ)である。八重は19歳の女盛りであり、戊辰戦争前でもあったことから、一時(いっとき)とはいえ、女性としての幸せを得て充実した日々を送ったことであろう。

 尚之助は、医者の家の出といわれ、蘭学にも優れ、鉄砲や砲術にも長(た)けた人物であったようだ。安政3(1856)年に、八重の兄覚馬が藩校日新館内に開設した蘭学所の教授、砲術の専門家として会津藩に招かれ、山本家に住むことになったという。

 元治元(1864)年、覚馬が京都守護職となっていた藩主松平容保(かたもり)公の元へ向かうと、尚之助は覚馬の後任として、日新館の蘭学所と砲術を教えるようになる。尚之助もまた、兵学、蘭学の師として覚馬を慕っていたのであろう。尚之助は翌年、八重と結婚するが、師の妹を妻に迎えることができ、この上ない喜びだったに違いない。

 ところで、慶応年間に書かれ、会津藩士の石高や役職を記した『御近習分限帳(ごきんじゅうぶんげんちょう)』に尚之助の名があることが昨年、明らかとなった。尚之助は完全に会津藩士となっていたようである。八重も兄覚馬から鉄砲や砲術を教えてもらっていたことから、尚之助とは気が合い、親しくなるには時間がかからなかったであろう。

 尚之助の性格は、どうだったのか。鶴ケ城籠城戦のさなかの慶応4(1868)年8月27日、大砲隊士の戸枝栄五郎ら(八重も協力)とともに、三ノ丸の外側、藩祖保科正之公を祀(まつ)る豊岡(とよおか)神社から、小田山中腹に造られた新政府軍の砲陣に砲撃した際の記録(『会津戊辰戦争』)には、「砲術師川崎荘(尚)之助、時に豊岡にあり、性沈(せいちん)毅能(きよ)く、衆(しゅう)を督(と)くして戦う」とある。

 このことから、尚之助は沈着、冷静で意志が強く、毅然とした態度で砲術隊士ら大勢の藩士を指揮、監督していたようで、八重も夫のそうした姿を頼もしく思っていたに違いない。

 さて、享和元(1801)年に完成し、八重の実家も近かった藩校日新館だが、戊辰戦争が江戸以北に展開すると、「日新館病院」となり(『戊辰戦争見聞略記』)、旧幕府の西洋医学に精通した陸軍医の松本良順(りょうじゅん)が院長となっていた。

 『会津戊辰戦史』の8月23日には、「西出丸より火箭(ひや)を射て之(これ)を焼く、傷兵歩することを得たる者は城に入り、歩する能は(あた)ざる者は自刃す」とあり、会津藩が火の付いた矢を放って日新館を焼き、歩けなかった者は自刃したようである。

 八重は、家の近くにあった日新館が炎上するのを見て、さぞ悔しがったことであろう。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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日新館と一度目の結婚
「会津藩校日新館」。会津若松市河東町に観光施設、研修施設として復元されている

【2012年5月6日付】
 

 

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