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新選組、白河へ出撃 一度は占拠奪還できず
八重が鶴ケ城に籠城していた時、女性の命といわれた髪を短く切っている。『会津戊辰戦争』には、「城中婦人の断髪は、わたしが始めでありました」とあり、八重が女性で初めて断髪をしたことが分かる。
八重は自分で脇差しを使い、髪を切ろうとしたが、なかなか切れず、手伝ってもらった。その髪を切ったのが、八重の生家山本家の北東、一軒挟んだ家に住んでいた三百石の高木盛之輔(せいのすけ)の姉、時尾(ときお)であった。八重は、時尾の家へ針仕事を習いに通ったとされ、親しい間柄であった。時尾は、男に成りきってまで兄覚馬や弟三郎の仇(あだ)討(う)ちをしようとする八重の姿に、ひどく心を痛めたであろう。
話は変わるが、時尾は、会津に残って戦った新選組副長助勤で三番組長、剣術師範の斎藤一(はじめ)と、戊辰戦争後に結婚している。仲人は、旧藩主の松平容保(かたもり)公と家老だった佐川官兵衛が務めた。会津藩から慕われた、忠義の士斎藤は、容保公から「藤田五郎」の名が贈られている。2人の墓は、現在の会津若松市七日町の阿弥陀寺に「藤田家之墓」としてある。
ここで新選組と戊辰戦争について少し触れたい。
新選組は、激戦だった白河城下での戦いでも活躍している。白河城(小峰城)は、慶応4(1868)年時、白河藩主阿部正静(まさきよ)公が棚倉城に移っていたことから、白河城は城主不在であった。『中島登覚書』によると、閏(うるう)4月5日、松平容保公より新選組隊長山口二郎(斎藤一)に対し、白河へ出撃命令が出る。新選組は、白河城下の脇本陣柳屋を本陣(建物の一部が残る)とした。
また、『白河口戊辰戦争記』に従うと、会津藩は閏4月20日に白河城を占拠し、21日には、白坂の境明神にある「従是北(これよりきた)白川領」の石柱を倒し、「従是北会津領」の木柱を立てている。同25日、新政府軍の攻撃が始まり、5月1日には逆に白河城が占拠される。
会津藩が奪還作戦を行ったが成功せず、戦いは七月下旬まで続いた。現在の白河市白坂の新白河中央病院東側には、塹壕(ざんごう)跡が135メートルも残り、稲荷山には会津藩家老の西郷頼母が指揮した陣跡が残っている。
ところで、八重が晩年、白河の関を越えて郷里入りした時に詠んだ歌がある。
「老いぬれど 又も越えなん白河の 関のとざしは よしかたく(難く)とも」
この歌が詠まれた時は、白河駅から白河城の本丸の石垣がよく見えたはずである。列車が白河駅に停車した時、本丸までは約200メートルしか離れていなかったため、八重は石垣だけとなった城跡を見て、戊辰戦争のこと、故郷のことなど、さまざまな思いが胸をよぎったに違いない。
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会津古城研究会長
石田 明夫
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「白河城跡」。地元では小峰城として親しまれる。写真は大震災前の天守 |
【2012年6月3日付】
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