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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重の夜襲作戦 
 
 敵斬りまくり、狙撃 女性唯一藩士同様


 鶴ケ城に入城した慶応4(1868)年8月23日当日、八重は日中、負傷者の看護をしていた(入城後、直ちに狙撃に向かったとも)。夕方になって、夜襲を行うとの城内の知らせに、八重は弟三郎になりきり、敵を討とうとする。

 先に述べたように、『会津戊辰戦争』には、「夕方になり、今夜出撃と聞きましたので、わたしも出様(でよう)と脇差(わきざし)にて、髪を切始めましたが、却々(なかなか)切れませんので、高木盛之輔(せいのすけ)の姉ときを(時尾)さんに切って貰(もらい)ました。城中婦人の断髪はわたしが始(はじめ)でありました」とある。八重の母佐久子らも入城していたはずだが、生家近くに住む「ときを」に断髪してもらい、八重は女性から男性へと”変身”したのである。

 さらに、「密と仕度( し たく)をして大小を差し、ゲベール銃(ゲーベル銃)を携へ夜襲隊と共に正門から出ました」。服装は黒の洋装と思われ、念入りに支度をしている。ゲベール銃は、先込めの丸弾を使用するもので、長さ1.5メートルと長く、重さ約4キロ、射程距離約300メートル。当時としては時代遅れの銃で、火縄銃より程度の良いくらいであったが、銃剣を装着できた。

 夜襲の際に八重が新式のスペンサー銃を持参しなかったのは、おそらく、スペンサー銃の弾は「椎(しい)の実形」のため会津藩では作るのが難しく、武器商人からの購入に頼っていたことから、既に入城後の狙撃で弾を使い果たしていたかもしれない。また、ゲベール銃は、銃剣を装着できることから接近戦に有効だったため、この銃を持参したとも考えられる。

 『会津戊辰戦争』には、「門を出て、暗闇を進んで行くと、敵の姿がちらほら見えたので、ソレッとばかりに斬込みました。無論喊声(かんせい)を揚げずに勝手次第に斬込んだので、敵の周章(うろたえ)加減は話になりません。全然(まる)で子供の打撃に遇(あ)ふた蜂窩(はちのす)の如(ごと)く、右往左往散乱し、中には刃向(はむか)ふ者もあり、又(また)同士討をして居る者もあったが、敵に増援隊が来ると、暫(しばら)く静まり、猛烈に逆襲して来ました。然(しか)し勝手を知って居る城兵が各處(かくしょ)に出没して縦横に斬って廻(まわ)り、火など放ちました者ありて、(中略)わたしも命中の程は判(わか)りませんが、余程(よほど)狙撃をしました。此時(このとき)の出撃人数や戦った時間などは一寸(ちょっと)判りません。(中略)夜襲に加はったのは、女ではわたし一人であります」とある。八重は藩士同様に、暗闇の中、敵を斬りまくり、少し離れると、銃を使用して得意の狙撃をしている。

 北出丸周辺には、板垣退助配下の土佐藩兵と、後に山川捨松が嫁ぐ薩摩藩の大山巌(いわお)が守備していた。この日の戦いで、大山は右太股(ふともも)に内から貫通銃創の重傷を負い、三春の天朝病院へ送られている。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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八重の夜襲作戦
会津若松市七日町の会津新選組記念館蔵の「ゲベール銃」。上から火打式、西洋式、和製

【2012年6月24日付】
 

 

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