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 戸ノ口原の戦いと八重 
 
 白虎隊、溝から連射 悌次郎ら3人戦死


 戊辰戦争で、八重が鶴ケ城に籠城を始めた慶応4(1868)年8月23日は、会津人には忘れられない出来事がいくつかあった。その一つに白虎隊の戦いがある。

 その日の早朝、猪苗代湖の北西に位置する戸ノ口原において新政府軍と最前線に位置した白虎隊の篠田中隊との戦いがあった。

 前述した隊士の一人、伊東悌次郎は、八重の東隣に住んでいた。八重は、悌次郎の死について『会津戊辰戦争』の中で次のように述べている。

 「悌次郎は、あの通り生年月の正誤を上表して白虎隊に入り、敢(あえ)て人後(じんご)にも落ちず、立派に飯盛山上の露と消えましたが、あの様(よう)な子供も君の為(ため)を思ふて、(銃の扱いを)熱心に習ひに来てあつたかと思ひますと、誠に可愛相(かわいそう)でなりません」

 八重は、弟のようにかわいがっていた悌次郎が生年月を訂正までして白虎隊に入り、藩主のために戦い、飯盛山で自刃したと、その死を悲しんでいるが、実は悌次郎が亡くなったのは飯盛山ではなく、戸ノ口原なのだ。

 飯盛山でただ一人蘇生した白虎隊士飯沼貞雄(貞吉を改名)が明治44(1911)年に書いた手紙の中で一貫して述べているもので、『七年史』『若松記草稿』『白虎隊勇士列伝』などの史料も同様だ。

 そこで少し長くなるが、戸ノ口原の戦いを振り返ってみる。

 飯沼が書き残した『白虎隊顛末記(てんまつき)』によると、「隊長日向内記の影だにみえず、一同顧(かえりみ)て唖然(あぜん)たり。此(こ)の時早くも教導の一人なる篠田儀三郎は揚言すらく、吾(われ)は教導の主席なるを以(もっ)て、代わりに隊長の任務を執らんと。(中略)直(ただち)に気を付けの号令を発し、人員点呼を行えり。其(そ)の点呼終わらずや否や、進めの号令を発せり。(中略)敵兵に接近せるを覚えたり。(中略)幸いに水無き溝あり、一時の急悉(ことごと)く其の溝内に潜伏したり。(中略)此に於(お)いて篠田打てと令するや、一同溝内より連射す。敵兵初めて我(わ)が兵あるを知り、狼狽(ろうばい)を極め、散乱したるものの如(ごと)し。然(しか)れども暫(しばら)くにして敵兵我が陣に向いて発射し、弾丸の飛来すること雨の如し。茲(ここ)に隊士死力を尽くし、銃身熱し手にすることを能(あた)わざる迄(まで)発射すれども(以下略)」

 白虎隊は水の無い溝に潜み、旧式の銃(ヤーゲルライフル銃)を使用不能になるまで撃っていたことが分かる。

 長州藩第一大隊中隊長の楢崎頼三(らいぞう)の『陣中日記』「廿三日、晴、朝少し雨、三時出陣、先鋒(せんぽう)少々戦ひ賊十人計りを斃(たお)し、進んで会城郭門に迫る」と、会津藩兵(白虎隊士を含む)を斃しながら進攻したと書いている。

 以前、筆者が見つけたのだが、茶屋街で知られる会津若松市の強清水の東側に、会津藩が戸ノ口原に布陣した陣跡とみられる塹壕(ざんごう)跡が残されている。会津藩は、菰土山(こもつちやま)を中心に、塹壕を三重に築いている。長いものでは長さ150メートルある。白虎隊も東側最前列に、長さ6メートル、深さ1メートルの塹壕を2カ所築き、23日の朝を待っていた。

 八重は、悌次郎ら白虎隊三人が戸ノ口原で戦死したことを最後まで知らなかったようである。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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戸ノ口原の戦いと八重
飯沼家に伝わる「白虎隊奮戦の図」。貞雄が会津の絵師梅里に描かせたもの。左側で立って指揮するのが篠田

【2012年7月8日付】
 

 

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