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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 西郷邸の21人 
 
 辞世残し一族自刃 婦女子の死230人超


 八重が、鶴ケ城入りした慶応4(1868)年8月23日、若松城下では敵に辱めを受けるのを恐れ、城に入らず、それぞれの屋敷で自刃した婦女子も多かった。

 『会津戊辰戦争』には同日の戦いで、会津藩士460余人、武士以外の人も少なからず亡くなったとあるが、自害した婦女子は数に含まれていない。これら婦女子の大半が、八重が北出丸で狙撃(敵兵が来襲)していたと思われる前後に命を絶った。

 特に、北出丸の北東に位置する家老の西郷頼母邸では、一族21人が自刃しており、白虎隊とともに戊辰戦争の悲劇として語り継がれている。

 会津若松市北青木の善龍寺には、自刃した21人の霊を弔う「なよ竹の碑」がある。碑名は、西郷頼母(1700石)の妻千重子(ちえこ)の辞世の歌「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」から取った。同じく善龍寺にある千重子の辞世の碑文は、飯盛山で自刃し、後に蘇生した千重子の甥(おい)、飯沼貞吉(後の貞雄)が揮毫(きごう)した。

 節義に殉じ、死を選んだ婦女子ら。千重子は、数え34歳であった。昭和3(1928)年に建てられた石碑の裏側には、戊辰戦争で亡くなった会津の婦女子233人の名前が刻まれている。

 西郷邸の自刃の様子は、『会津戊辰戦争』や『会津戊辰戦史』に詳しい。若松城下に敵兵が殺到した朝九時ごろ、戦いの足手まといにならないようにと、頼母の母律子(りつこ)(58歳)、妹の眉壽子(みすこ)(26歳)と、由布子(ゆうこ)(23歳)、長女細布子(たいこ)(16歳)、次女瀑布子(たきこ)(13歳)が、辞世の歌を残し自刃。千重子は、子の田鶴子(たづこ)(9歳)、常盤子(とわこ)(4歳)、季子(すえこ)(2歳)を刀で刺した後、自害した。ほかに、支族の西郷鉄之助夫妻、義母の実家小森家の婦女子、江戸藩邸から避難していた親戚らが殉じた。

 『西郷隆盛一代記』には、次のようなやり取りが書かれている。

 薩摩藩士の川島信行(のぶゆき)は、西郷邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り、奥の部屋に進むと、男女が環座し自殺していたという。細布子は、わずかに息があり、「その所に参らるゝは、敵か味方か」と尋ね、敵ならば、戦おうとするしぐさをしたが、川島が「味方だ、味方だ」と叫ぶと、その場に倒れた。細布子は懐剣を出し、咽喉を刺そうとしたができず、不憫(ふびん)に思った川島が介錯(かいしゃく)したという。川島は、八重子、細布子らの辞世を記した短冊を持ち帰った。

 なお、波乱の人生を歩んだ西郷頼母は、明治36(1903)年、西郷邸に近い会津若松市東栄町の長屋で亡くなり、善龍寺に墓がある。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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西郷邸の21人
会津若松市の善龍寺にある千重子辞世の碑文。元白虎隊士で甥の飯沼貞吉が揮毫した

【2012年7月22日付】
 

 

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