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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 小松獅子団の入城 
 
 戦場の一団に唖然 東軍と知り地団駄踏む


 今回は、慶応4(1868)年8月26日、彼岸獅子を先頭に会津藩兵が鶴ケ城に入城した奇策について述べたい。

 城内の兵が少ないことを憂いた藩主松平容保(かたもり)公は、25日、日光口(南会津町田島)にいた家老山川大蔵に使者を出した。『会津戊辰戦争』に「城中兵少なく、守備薄弱なり、速かに帰城すべし、但可成途中(ただしなるべくとちゅう)の戦闘を避くべし」。大蔵は、直ちに大内(下郷町大内)から小松(会津若松市北会津町小松)に達した。さらに斥候を城に送り、「賊徒城外に満つ、途中の衝突免るべからず」との報告を受けた大蔵だが、「可なり我に一策あり」。そこで考えたのが彼岸獅子を利用した入城であった。

 『小松獅子舞考』によると、その日、大蔵らは小松の大竹小太郎家に一泊。小太郎に対し、「松平家三百年の恩顧に報ゆるはこの時ぞ」と伝え、小太郎は、勇気ある独身男子を集めたという。

 『会津戊辰戦争』には、入城途中の出来事が書かれている。要約する。

 小松を出発した一団(4、50人)は、楽手を先頭にして縦隊をつくり、秘(ひそ)かに阿賀川(大川)を渡り、全員が渡り終えると、大蔵は、飯寺(会津若松市門田町飯寺)の西で一団を勢揃(せいぞろ)いさせた。楽手を先頭に、大蔵が続き、縦隊整列。大蔵の「前進」の命令で、彼岸獅子の囃子(はやし)が始まり、材木町、川原町橋周辺を占拠していた長州藩と大垣藩の南側を堂々と行進した。すると、「西軍之(これ)を望み其(その)勇壮活発なる奏楽威風凛々(りんりん)たる隊容を見て、意表天外、拱手(こうしゅ)傍観唖然(あぜん)として、銃を杖(つえつ)き遥(はる)かに之を迎送するのみ、敢(あえ)て来り、其所属を問ふものなし」。西軍は、突如、戦場に現れた異様な一団に唖然としながらも傍観しているだけだった。

 また、『若松記草稿』には、入城前、郭内を偵察し敵の一掃を行った、とある。「入城以前、敵、融通寺町(現在の本町)横行ノ由ニ付、鈴木隊一小隊(約50人)、巡邏(じゅんら)トシテ敵退散、残者一人有リ、何(いず)レト問ヘハ二本松ト答、然(しか)リト雖(いえども)、薩州ニ似タリ、故ニ融通寺ニテ討取」。先頭が城に到達しようとしても、一団を射撃することもなく、銃声も止(や)んで静かだったという。

 『会津戊辰戦争』には「大蔵の一隊意気揚々として、西追手門より入る。城兵之を見歓声を挙げて之を迎ふ、これに反し西軍初めて其東軍なりしを知り、切歯扼腕(せっしやくわん)すれども及ばず、只(ただ)左右相顧み唖然として、自から其の迂(う)を笑うのみ」。西軍は一団が城に入ると初めて会津藩兵と知り、地団駄(じだんだ)を踏んだ。城内の八重もきっと、この痛快な彼岸獅子の入城を見ていたに違いない。

 この時、獅子舞を演じたのは、隊長の高野茂吉、数え30歳を頭に、平均15.7歳の10人。茂吉以外すべて十代で、最年少は藤田与二郎11歳であった。戦後の明治4(1871)年2月17日、御薬園(会津藩松平家の別邸)に招かれた獅子団の10人は、容保公から獅子団の勇気と感謝の言葉を賜り、さらに獅子の頬掛けと高張り提灯(ちょうちん)に会津藩、葵御紋の使用を許された。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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小松獅子団の入城
「小松獅子団」。毎年春の彼岸に会津若松市内で演じられる

【2012年8月12日付】
 

 

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