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藩が120万両を鋳造 戦費調達へ幕府が特許
八重は「実際西出丸の上から日々狙撃をして居ました」(『会津戊辰戦争』)と述べているように、本丸では照姫の手伝いをし、西出丸では狙撃もしていた。娘子軍(じょうしぐん)の水嶋菊子は、「山本八重子(八重)さんも入城して居られまして、八重子様は私に鉄砲を貸して下さいました」と話し、同じ娘子軍の中野竹子(戦死)の妹優子は、菊子同様男装し、黒の洋装だったため、白虎隊士に間違われていたという。
ところで、八重が狙撃していた西出丸では、開戦後に貨幣を鋳造していたと、『会津戊辰戦史』に記録が残る。「城中西出丸に鋳造所を設け、該金工等をして二分金及び、其(そ)の他を鋳造せしめ、其の鋳造高の二分の一を上納せしめたるが、上納額六十萬両に達し、大に守城前後の金融を圓滑ならしむることを得たり」
鋳造にあっては、若年寄の山川大蔵(後に家老)が、幕府の「特許」に基づいて藩に建議し、奉行海老名郡治(後に家老)と共に始めた。藩士から任意に金銀の装飾品を集め、原材料不足の時は、さらに庶民や領地外から金銀を買収して調達に当たった。
『会津戊辰戦史』に「我(わ)が藩京都守護の際藩費の不足補充の用に供せんが為(た)め金銀貨幣鋳造の特許を幕府に請願し閣老の允下(いんか)證(あかし)を下付(かふ)せられたるも未(いま)だ実行に至りざりき」とあり、幕府から特別の許可を受けていたようだが、これより早く戦争に突入した。
『簿暦』には「(慶応4年4月19日)、山川大蔵君、御使に来られ候由、右は鋳金の事のよしなり」と、御薬園において、旧幕府の外交担当老中で唐津藩世子の小笠原長行(ながみち)公と大蔵が貨幣鋳造の相談をしている。会津藩は戦費調達のため、苦肉の策として百二十万両を鋳造し、金銀供出者へ貨幣として半分返し、残り六十万両を軍費とした。
一方、八重らが籠城中の8月25日には、金を盗み出そうとした不届きな会津藩士もいた。『若松記草稿』に「酒井又兵衛、累代ノ御原恩ヲ忘却し、御城中ヨリ大金ヲ盗ミ出ルヲ以(もって)、裏御門ニ梟首(きょうしゅ)セラル」。大金を盗み出して西出丸の南で捕まり、裏御門(天守閣北側)北西付近に首が晒(さら)されたようである。
『若松市史』によると、貨幣は「御城出来」と称し、拾両大判、壱両小判、二分金、一分銀、二朱金、一朱銀等が造られた。それらは贋金(にせがね)ではないため、明治政府から咎(とが)めを受けることはなかった。しかし、貨幣鋳造に関係した職人が、贋金を造り、明治五年ごろまで続く。取り締まりで約1200人が捕まり、回収した贋金は、約十八万両に上った。
さて、鋳造された貨幣は開城の際、城内には存在しなかった。どうやら、8月26日、家老西郷頼母(たのも)が藩主松平容保(かたもり)公からの密命を受けて運び出し、27日に白虎隊士中二番隊長日向内記(ひなたないき)の関係者が、高久(会津若松市神指町高久)から舟で西会津町上野尻へ運んで埋めたようである。
この金は、どうなったか。
関東学院大初代院長を務めた日向の孫、坂田祐(たすく)は『新編恩寵の生涯』の中で、明治時代に貨幣を新潟港から秋田港に運び、青森県の斗南藩へ持って行ったと聞き及んだという。戊辰戦争の知られざる一面である。
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会津古城研究会長
石田 明夫
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「日向内記の墓」。内記の墓は喜多方市の満福寺にある |
【2012年8月19日付】
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