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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 娘子軍の結成と八重 
 
 武芸を習い決死隊 出陣誓うも指揮者なく


 会津藩では、婦女子も戊辰戦争に加わっていたことはよく知られている。特に、城下北西の越後街道が湯川に架かる柳橋の北600メートル(現在の会津若松市神指町東城戸)で戦った婦女子を「娘子(じょうし)軍」と呼んでいる。それらは、中野こう(幸)子(数え44歳)、娘の竹子(22歳)、優子(16歳)、さらに、依田まき子(35歳)、依田(水島)菊子(18歳)、岡村すま子(30歳?)の6人である。

 『会津戊辰戦争』で、八重は「籠城の6日目(8月28日)に中野こう子さんが入城されたが、わたしを見て『何故(なぜ)娘子軍に加はりませんでした』と、(これに対し)『妾(わたし)は鉄砲にて戦する考えで居りました』」と答えている。

 こう子は、江戸詰の勘定役中野平内(へいない)の妻だった。中野家は、会津藩が江戸から撤退した際、古坂下(こばんげ)の玉木徳五郎宅に世話となり滞在していた。こう子が言うように、すでに「娘子軍」と呼ばれる婦女子の一隊があり、八重もその隊に誘われたようだ。しかし、八重は、もはや刀や薙刀(なぎなた)で戦う時代ではなく、鉄砲が主力と考えていた。

 ところで娘子軍の名は、定まったものではない。八重の西隣に住んでいた水島菊子が『会津婦女隊従軍の思ひ出』の中で、城に入ろうとした際、すでに城門が閉まっていたために入れず、「モウ城門は閉つて居ます。致方なく引返します(西に行く)と、中野竹子様母子、姉妹御三人方に御出会ひし、そこへ岡村すま子様も来られましたので、そこで婦女隊が出来た訳です」。このように「娘子軍」を「婦女隊」とも呼んでいたようだ。

 他に『会津戊辰戦史』には、「女隊」とも書かれている。つまり、娘子軍の名は正式なものでなく、婦女子の一団で呼び合っていた名称のようである。

 同じく菊子が数え81歳時、『会津戊辰戦争』の中で娘子軍誕生のいきさつを、「(義理の兄、会津藩士依田源治が、伏見で戦死したため)姉のまき子は夫の源治の戦死を聞き、非常に憤慨し、君のため又(また)夫のため、ぜひ一太刀たりとも怨まんものをと決心いたし、近處(依田家の西隣)の門奈治部殿(八重の家から一本北側の米代三ノ丁にあった)の夫人梅子さんに就て、薙刀の練習を始めました」と述べている。人数は、六、七人いたようで、そこに、近所の八重も加わったようである。

 また、『会津戊辰戦争』には「時に(会津藩士)赤岡大助の門下にありし、中野竹子及び其(その)妹優子等又盛に武技を鍛錬しつゝあり」と書かれ、八重とは別に中野姉妹らのグループも武芸を習っていた。中野母子らは「君国の危急を座視するに忍びず、機を見て出陣せんことを誓ひ、茲(ここ)に二十有余人の婦人決死隊を編成せり。然(しか)れども未(いま)だ一定の指揮者なきを以(もっ)て単に婦人の一団と称するに過ぎず」とあるように、一団には隊長のような指揮者はいなかった。ただし、柳橋で戦った娘子軍は、年長の中野こう子がまとめ役となっていた。

 繰り返しになるが、銃を扱い慣れた八重は「娘子軍」のように、薙刀や刀の戦いでは勝てないと強く思っていた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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娘子軍の結成と八重
「中野竹子殉節之地の碑」。会津若松市神指町にある

【2012年8月26日付】
 

 

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