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竹子ら妹殺す相談 美人を憂慮、菊子ら制止
八重より一歳年下の中野竹子(数え22歳)は、江戸の屋敷に住んでいたことから江戸弁を話し、武芸も達者だった。さらに竹子、優子姉妹は美人であった。このため、年齢も近く、銃を手に会津戊辰戦争を戦った八重とは、何かと比較されることが多い。
慶応4(1868)年8月23日、竹子ら娘子(じょうし)軍は城に入らず、会津坂下に向かった。何故(なぜ)か。
前回も触れたが、水島(依田)菊子は『会津戊辰戦争』の中で、姉の依田まき子と共に城に入ろうとしたが、城門(西出丸の西大手門か)はすでに閉ざされていたので、仕方なく、十八蔵(米蔵)や屋敷が燃え、銃弾の飛び交う中、米代一ノ丁を西へ進むと、外郭外堀の川原町口付近で会津坂下から駆け付けた中野竹子ら親子と出会った。さらに岡村すま子も合流したという。ここに娘子軍が集結したのである。
6人は、小雨で濡(ぬ)れた着物を着ており疲れてはいたが、敵に斬り込む相談をしていると、城中より来た藩士が「照姫様(松平容保(かたもり)公の二歳年上の義理の姉)は坂下駅(坂下宿)へ御立退きになった」という。竹子らは藩士の言葉を頼りに、会津坂下へと向かった。しかし、照姫一行は、来ていなかった。六人は落胆し、近くの法界寺に入ったのである。寺では、近所の人が「誠心(まごころ)」込めて同情し、御飯を出し、さらに当時、京都舞鶴の萬願寺(まんがんじ)から運ばれたため「萬願寺鯉(こい)」と呼んでいた鯉を料理して接待した。
菊子の『会津婦女隊従軍の思ひ出』によると、「其(その)夜(23日)夜半の事、秘々(ひそひそ)話が聞こえますので、耳を澄ませますと、それは中野竹子様と御母様(こう子)とが、優子様を殺さうと云(い)ふ相談をして居られるのでありました。元々(もともと)この中野のお三人はお三人共、世に勝れて美しい方々でありましたが、殊に十六の優子様はお年も一番若い上に、一層美して稀(まれ)な美人であられましたので、若(も)し敵に押へられて慰物にでもされては恥辱だから、寧(いっ)そ今夜の中に殺して了(しま)はうと云ふ御相談でしたので、私共と姉とが飛起きまして御二人に種々お話して、殺さないでも、どうかなるだろうからと申して、暫(しばら)く思ひ止(とどま)つて戴(いただ)きました」
さらに、『会津戊辰戦争』の中でも菊子は、「夜半に不図(ふと)見ると、中野のこう子さんと竹子さんが、何にかひそひそとしきりに話をして居られたが、こう子さんは、側(そば)に寝て居る優子さんをながめながら、『呼び起こして自刃せしむべきか…いやそれよりは…』かくせんと、太刀を抜き將(まさ)に優子さんの寝首を掻(か)かんとしましたので、わたしはここは大変と、すぐとびつきて其手を抑へ、姉(依田)まき子と共に其訳を聞きますと、御両人は異口同音に『優子が居つては思ふ存分に働けませんし、又(また)皆さんの御邪魔にもなりますから、冥途(めいど)に先立たした方がよろしいとおもひます」と当時の緊迫したやり取りを残している。優子は菊子らによって、すんでの所で殺されるのを止められている。
その後、八重は28日に城内に入った優子へ鉄砲を貸し与え、共に狙撃をしている。
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会津古城研究会長
石田 明夫
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「中野竹子(手前)、優子、柳橋奮戦の図」(会津坂下町・法界寺蔵) |
【2012年9月2日付】
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