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 会津のナイチンゲール 
 
 戊辰で負傷者看護 八重と岩子、献身的活動


 籠城戦中、八重が負傷者の看護をしていたことは、前述の通りである。その経験は、八重の半生に大きな影響を与えた。

 明治27(1894)年、八重は日本赤十字社の篤志看護婦として広島で日清戦争の傷病者の看護活動に尽力。明治29年には、功績が認められ、皇族以外で女性初の叙勲を受章するなど、後世、日本のナイチンゲールと称される一因となった。

 ところで、会津では日本のナイチンゲールと称される人物がほかにもいる。戊辰戦争でも活躍した瓜生岩子である。岩子の家は、小田付村(現在の喜多方市字北町)の油商若狭屋で、岩子は文政12(1829)年2月15日、当主渡辺利左ェ門の妻りえの実家、熱塩温泉(現在の山形屋)で生まれた。九歳の時に父が病死し、直後に家が焼失、岩子らはりえの実家である熱塩温泉で暮らした。

 天保13(1842)年、叔母の家が会津藩医の山内春瓏であったことから岩子は医師の見習いとして住み込み、春瓏とともに鶴ケ城へ出入りしていた。その時の体験が岩子の看護活動の原点となっている。

 弘化2(1845)年、岩子は会津高田出身の佐瀬茂助と結婚。呉服商松葉屋を開き、一男三女をもうけた。しかし、茂助は病死、手代が店の金を持ち逃げしたことで店は潰(つぶ)れ、春瓏やりえも亡くなったため、元冶元(1864)年に実家の熱塩温泉に戻っている。

 不幸が続いたため、岩子は古刹(こさつ)示現寺に行き、「いっそ尼になりたい」と話したという。これに対し、住職は、「世の中にはおまえ以上に不幸せな人は大勢いる。おまえのこれからの一切を、もっと不幸な人のためにささげなさい。情けの全てをかけなさい。おまえは他人の喜びを自分の喜びとすることができる人だ」と諭された。その後、改心した岩子は慈善活動に半生をささげる。

 戊辰戦争の時、岩子は40歳だった。戦乱の若松城下に行って負傷者の看護をし、会津藩側からは「敵軍を看護している」、新政府軍側からは「誰の許可を得たのだ」と非難を浴びたが、「けがの手当てをするのに誰の許可もいりませぬ」「けがをした者は皆同じ、国のために戦っているのです」と話したという。そのことは、土佐藩の参謀板垣退助の耳にも伝わった。

 後に、明治天皇の皇后さまにも岩子の行動が伝わり、面会することになった。面会の際は、大山捨松の姉、操が会津弁の通訳をするほど、岩子の会津なまりは強かったという。

 岩子は、明治30年4月19日、69歳で死去、墓は喜多方市の示現寺にある。戊辰戦争で、城内にいた八重と、市街地にいた岩子。いずれも看護を通じ、命の大切さをかみしめていたことだろう。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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会津のナイチンゲール
東京浅草、浅草寺本堂西側にある瓜生岩子の銅像

【2012年11月4日付】
 

 

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