|
戦時下も正確な鐘 戦勝祈る僧侶天守閣で読経
八重と親しかった女性の中には、入城できず城下を離れた者、八重とともに籠城し、戦った者がいた。籠城戦は約1カ月に及んだが、それぞれに苦難の人生を送っている。
『万年青』によると、八重の屋敷の北東に隣接し、幼馴染(おさななじ)みで親しかった日向左衛門(さえもん)(400石)の長女ユキ(18歳)は城には入れず、祖母や弟、妹ら一族六人と御山(現会津若松市門田町御山)の農家に避難し、八重とは離れ離れになった。
入城できた山川捨松(すてまつ)の姉、操(17歳)は、いや応なしに戦いに巻き込まれた。『17歳にて会津籠城戦中に実験せしむ苦心』では、城内で日々先込め銃の弾丸作りをしていたと述べている。「弾丸は、小さく切つた紙片をひろげて、それを細長い竹筒に巻きます。さうすると、紙が筒形になりますから、紙の一方をチヨッと捻(ひね)つて底を拵(こしら)へ、中の竹筒をスポッと抜きます。その中へ弾を入れて、その上へ火薬を入れて、紙の上をまたチヨッと捻ります。これを幾つも並べておきますと、10から12、3ぐらゐの子供たちが、皆それを持つて、一生懸命に戦つてゐる兵隊のところへ運ぶのでございます」
『会津戊辰戦史』によると、婦女子が二ノ丸の文庫蔵にあった唐本を取り出し、その紙を利用して日々1万2000発を作ったが、開城時には23万発残されていた。銃砲に詳しい八重も弾丸作りの指導に加わったことだろう。
一方、会津戦争では、これら女性以外にも、多くの会津人がそれぞれに戦いを繰り広げた。『会津戊辰戦史』に鐘楼守(しょうろうもり)の話がある。
「鐘楼守の名を百木多七、上野磯次郎と云(い)ふ、磯次郎は鐘楼に於(おい)て弾丸に中(あた)りて死せり、後上野善治、加藤庄助、上野圓之助、之(これ)に従事す」とあり、鐘楼守の一人が狙撃され亡くなっている。『会津戊辰戦争』には、鐘は大砲の標的となり、東隣の弓櫓(ゆみやぐら)に当たり火薬に引火し燃え上がったが、「時の鐘は、聊(いささ)かあやまらず撞(つ)きたりしは、敵味方も共に感ぜぬは、無かりしなり」と、敵味方とも戦時下でも正確な時を告げる鐘の音に驚いている。薩摩藩士種子島清之助も「倍々(ますます)砲撃を加ふるも依然として更(さら)に手答へなし、これには流石(さすが)の西軍も呆気(あっけ)にとられ、又(また)気根まけをせしが、遂(つい)には反(かえっ)て之が重宝となり、『セコンド(懐中時計)』を有するものは、之に時を合せ、之を有せざるものは之にて時を知り、鐘聲(しょうせい)を待つに至りと云々(うんぬん)」と、終(しま)いには敵方も鐘の音に時計を合わせていたという。
さらに、『会津戊辰戦史』には、日蓮宗御旗町大法寺の僧日清(にっせい)の話を載せる。日清は、「23日守城以来日々天守閣に登り我が軍の戦捷(せんしょう)を祷(いの)る。此(こ)の日(9月14日)敵の一斉砲撃に閣上破壊して危険を極むれども、日海(日清)が読経の聲(こえ)は朗々として平生に異ならざりき」。僧侶の日清は危険を顧みず、砲撃中も天守閣で敵の退散を祈願している。
火消し組の活躍もあった。『会津戊辰戦史』に、江戸の会津藩邸で常備していた防火夫(火消し組)は、西出丸の西北角櫓(すみやぐら)を屯営にして、砲声を聞けば、屋根に上り、火が起きると水を注ぎ消し、多大な功労であったという。開城後、彼らはひっそりと江戸へ帰っていった。
八重は、昼夜、鐘楼守が撞く鐘撞堂(かねつきどう)の鐘の音と、天守閣にいた僧侶の読経を聞き、一方で火消し組の活躍に感謝し、一日も早い敵の退散を祈っていたことだろう。
|
会津古城研究会長
石田 明夫
>>> 33
|
鐘は延享4(1747)年製で、今でも昼に撞かれている |
【2012年11月11日付】
|