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 会津藩の武器 
 
新潟港経由で調達 制圧後届かず城で弾丸作り


 会津藩では、武器をオランダ国籍でプロシア(ドイツ)人のヘンリー・スネル、エドワルド・スネル兄弟から調達していた。

 『会津藩武器購入に関する一問題』によると、慶応4(1868)年3月23日、会津藩は弟エドワルド・スネルから、オランダ製ライフル銃(ヤーゲル銃)、七百八拾挺(ちょう)を七千二拾ドルで、会津藩商人の鈴木多門が新潟港経由で買っている。

 さらに『甘粕継成日記』によると、同年5月24日、兄ヘンリー・スネルは、鶴ケ城で藩主松平容保(かたもり)と会い、髪を剃(そ)り、日本製の羽織を着て、袴(はかま)をはき、名を平松武兵衛と称し、城下西、現在の西若松駅南西隣(材木町一丁目)に屋敷を与えられている。

 会津藩は鈴木多門とは別ルートで旧幕府の「順導丸」を借り上げ、さらに武器を調達しようとした。船は3月13日に江戸を出発。4月11日に新潟へ入港したものの運送代2700両のうち、700両しか用意できず、結局、荷揚げはされなかった。5月24日、船は移動先の寺泊港で停泊中に敵艦の砲撃を受け、焼失している。
 7月28日には、新潟港が新政府軍に制圧され、スネル兄弟が用意した銃などの商品も奪取されている。会津藩は、武器が手に入らない上に、籠城後は四斤山砲やアームストロング砲の攻撃を受けていた。

 八重が明治42(1909)年、『婦人世界』に語った『男装して会津城に入りたる当時の苦心』には、「入城した女の役目は、兵糧を炊くこと、弾丸を作ること、負傷者の看護をすることの三つでございました」とあり、そのうちの一つ、山川操が弾丸を作る過程は前述したが、八重は操の記述に対し、補足説明している。

 「山川操子様のお話の通りですが、それを百発ぐらいづつチャンと函(はこ)に入れて、それぞれ分配いたしました。それがなかなか重いもので、平日なら一函でも持ちきれますまいが(以下略)」と、弾丸の箱は重く、普段なら持てないが、八重は戦時下で男性並みの力を発揮、「二函も三函も肩に担いで弾丸方に渡しました」という。

 一方、八重が砲撃を受けた際、婦人として一番心配だったこと、それは厠(かわや)に入っている時だったという。

 「武家の婦人として、一矢も酬(むく)いず犬死にするようなことがあっては、主君に対しても家名に対しても誠に恥かしいわけですから、たとえ流弾に当って死ぬまでも、戦えるだけ戦って、立派な最期を遂げたい一心でございました」。さらに、「(厠に入っている時に)最期を遂げました時は、婦人として最も恥べき醜態を晒(さら)さなければならぬからでございます」とも述べている。

 会津武士同様、会津女性としての強い信念、誇りがうかがえるエピソードだ。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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会津藩の武器
八重が肩に担いで鶴ケ城に入城した、元込め七連発銃のスペンサー銃(会津新選組記念館蔵)

【2012年11月18日付】
 

 

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