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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 新政府軍総攻撃の日 
 
 城内に2500発の砲弾 消火手伝い子供も奔走


 慶応4(1868)年9月8日、「改慶応四年可為明治元年旨」という一世一元の詔が出され、慶応4年1月1日に遡(さかのぼ)り明治と改元された。

 会津では、なお戦いが続いていた。八日、長岡藩家老山本帯刀(たてわき)(24歳)が率いる42人は、『山本帯刀伝』によると、高田村(現会津美里町高田)から飯寺村(現会津若松市門田町飯寺)に進み、会津藩兵ら約400人とともに朝霧に乗じて薩摩藩と宇都宮藩の陣所を攻めた。しかし、長岡藩兵は、逆に宇都宮藩兵に囲まれ、捕らわれて本営に送られた。そこで、帯刀らは降伏を勧告されたが、拒否し斬首された。墓が飯寺の墓地にある。

 同日、旧幕府の大鳥圭介、衝鋒隊の古屋佐久左衛門らは、現在の喜多方市にあった小田付代官所で会津からの退却を決めている。

 一方、城中の食糧にも事欠く状況でも降伏しない会津藩に対し、新政府軍は9月12日、総攻撃を諸隊に通達した。『浅野長薫家記』には、「砲発ハ、山上之砲声相図ニ打出候筈、但大砲壱挺(ちょう)ニ付、弾薬五拾発ツ」とあり、大砲一門につき、砲弾50発が用意され、山上(小田山)からの砲声により開始する手筈(てはず)となっていた。翌13日は雨で天候が悪く、14日に総攻撃が開始された。

 『七年史』は、「砲声殷々(いんいん)として、弾丸霰(あられ)に似たり。山岳振動して、殆(ほとん)ど人語を弁ぜず。死屍(しかばね)積で山の如(ごと)く。城中寧(むしろ)処なく、人皆一死を期す。(中略)城中、火屡々(しばしば)発し、天守の如き、破壊して登る可らざるに至る。城兵善(よ)く防ぐ」と砲撃の凄(すさ)まじさと会津藩兵の善戦を語る。

 八重は『会津戊辰戦争』で「小田山方面の砲声を聞きつつ黒点を以(もっ)て昼間だけの弾数を調ぶると1208発であつたと申して居ました。大書院の病者は昼夜を通して2500有余発を算したそうであります。随分猛烈でありました」と話し、また、『男装して会津城に入りたる当時の苦心』では、「これは一度、音が聞こえる度に黒い点を打つて数へたのだそうです」とも述べている。昼に1208発、昼夜合計では、約2500発の砲弾が城内へ撃ち込まれた。

 『会津戊辰戦争』によると、総攻撃は朝六時に始まり、夕方の六時まで続いた。八重は、「頭上で爆裂するかと思ふと、脚下に砂塵(さじん)を揚げる、瓦は落つる、石は跳ぶ、城中は全然(まる)で濛々(もうもう)たる硝煙で殆ど噎(むせ)ぶような有様(ありさま)」だったという。このような状況でも、誰一人躊躇(ためら)う者もなく、子供らも濡(ぬ)れ莚(むしろ)を手に消火し、手伝いに走り回っていたという。

 この日八重は、病室だった本丸南側の大書院や小書院の病室へ御握りを盆に載せ、友人の有賀千賀子と共に運んでいた時のことである。脚下に砲弾が落ちて破裂し、砂塵が濛々として、眼(め)も口も呼吸もできないほどだった。目を拭ってみると「其顔は全然で土人形の怪物(ばけもの)」そっくりで、お互いに顔を見、可笑(おか)しくて抱腹絶倒したが、御握りは「蟻塚をそつくり盆に載せた様に塵(ごみ)一杯になつて居た」ため、がっかりしたという。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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新政府軍総攻撃の日
図は「会津若松城跡復原図」。城の南東に位置する月見櫓(点線内)にいた老人は、砲弾数を黒点と記録し数えていた

【2012年11月25日付】
 

 

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