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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 城南の戦いと父の死 
 
 会津藩最後の攻撃 死花咲かす婦人も決心


 前述したように、9月14日の新政府軍の総攻撃は凄(すさ)まじく、『七年史』によると、万一落城した場合には、照姫は藩士の鈴木新吾が介錯(かいしゃく)することになっていたという。新吾は「城門の破れたるなりと思惟(しい)し、心神や乱れけん。既に刀を執りて、姫に生害を勧めければ、左右に在りし者ども急に停(と)むるに至れり」と、落城したと勘違いして錯乱状態となり、照姫を斬ろうとした。翌15日も同様に砲撃は続き、城中皆、死を覚悟した。

 城中にいた藩士婦人の酒井たかは、『籠城中の思ひ出』に、小さな部屋にいた時、砲弾片が飛んで来て母の後頭部に当たり母は即死、同じ部屋にいた高木豊次郎婦人の後頭部も吹き飛ばしたという。それでも、たかは「格別苦しいとも悲しいとも思はず、如何(いかに)したら死際を立派にしやうかと、それのみ苦心してゐました」と語っている。

 八重は、『会津戊辰戦争』で最期の覚悟を次のように述べている。「籠城婦人は何(いず)れも、多少なりと怪我(けが)をして、他の厄介になる様では、男子の戦闘力を殺(そ)ぐ様になるから、其(その)時には、自刃をしやうといふ覚悟で、脇差か懐剣(かいけん)を持たぬ人はありません。妾(わたし)も介錯する人をたのんで居ました。こんな譯(わけ)で、支度も身軽にし、帯なども決して解けぬ様、細紐(ほそひも)にて緊(しっ)かり結んで居ました」

 八重は言う。「弟三郎(21歳)は、正月3日(戦いは5日)伏見で、父権八(61歳)は9月17日一ノ堰にて戦死をして居ます。籠城中の婦人は、大概こんな境遇の人ばかりであるから、何れも死花を咲かせやうと決心して居(お)つたのであります」。八重も父や弟同様、立派に死ぬことに躊躇(ちゅうちょ)はなかった。

 総攻撃を受けた会津藩は、戦況を打開するため、城外の部隊を城南側に集結させ、新政府軍に対し最後の攻撃を仕掛けた。14日、会津藩家老の一ノ瀬要人らは、城南西の阿賀川(大川)沿いを南から北へ進み、飯寺村(現会津若松市門田町飯寺)の敵陣を攻撃。朱雀四番寄合組は、山沿いの青木村(現会津若松市門田町黒岩)へ、南から進攻し敵を敗走させた。要人は、この戦いで負傷し、22日に死亡した。

 16日、『中村半次郎書簡』によると、会津藩軍事奉行添役の秋月悌次郎は、森台村(現会津若松市高野町森台)の米沢藩陣所に出向き、藩主松平容保(かたもり)の使者として降伏を申し出ている。

 17日午前八時、新政府軍約400人は、阿賀川沿いの一ノ堰村(現会津若松市門田町一ノ堰)南にいた会津藩に攻撃を開始した。『朱雀四番士中組戦争調書』には、新政府軍は、飯寺村から400人で阿賀川の土手道を進み一ノ堰村方面に攻勢をかけた。敵の一隊は雨屋村(現会津若松市大戸町下雨屋)の堂山へ進み、白虎隊半隊頭原四郎らが七連発の後装銃(スペンサー銃)で、新政府軍を漸く撃退している。(『会津戊辰戦争』)

 会津藩は一ノ堰村の六地蔵堂の集落を死守したが、敵の進攻を止められず福永村(現会津美里町福永)に撤退した。この戦いで、玄武隊に属していた八重の父山本権八も戦死。八重は、明治15年7月、夫新島襄らとともに会津若松へ来て一カ月滞在した時、父権八の墓を建てたようである。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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城南の戦いと父の死
父、山本権八の墓。会津若松市門田町一ノ堰にある

【2012年12月2日付】
 

 

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