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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 開城前夜 
 
 小布縫い降参の旗 城内の婦人涙ながらに


 鶴ケ城の籠城戦も3週間が過ぎた9月16日、会津藩側からも開城に向けた動きが出てくる。『戊辰事情慨旨』には、前回述べたように秋月悌次郎らが米沢藩陣所へ降伏を申し出た。18日には、米沢藩士針生虎之助の案内で、悌次郎らが薩摩藩参謀伊地知正治(まさはる)の元へ送られている。20日には、藩主松平容保(かたもり)の使者として藩士鈴木為輔、川村三助が土佐藩人足頭分作吾の案内で変装しながら土佐藩陣所へ向かった。

 『会津開城使者の始末』によると、追手門を出た為輔らは砲撃が激しかったため、西郷頼母(たのも)邸の焼け残った土蔵に潜み、身を潜めながら興徳寺に入り、馬場町口を出たという。興徳寺では長州藩が木を伐採し、外堀の土塁上などに小屋を建てていた。途中、敵か味方か判(わか)らない屍(しかばね)が多数あったという。為輔らは先に土佐藩の陣所にいた悌次郎らと合流し、降伏へ向けた話をし、土佐藩から護衛を付けられ、再び甲賀町口から城内へ戻っている。

 『会津戊辰戦史』には、21日「暁天より城中、発砲を止(や)む」とあるように、その日は明け方から城内は静まり返った。その夜、容保は城内の兵に対し、「予一人の為(た)めに数千の子弟人民艱苦(かんく)の状、見るに忍びず。風に聞く錦旗領内に臨むと、苟(いやしく)も朝敵に抗するの念なきに於(お)いては、速やかに城門を開き降(参)を請い、藩士祖先の祭祀(さいし)を全うせしめ人民塗炭(とたん)の苦みを救わんとす」(『暗涙之一滴』)。容保は錦の御旗が領内に入ってくることを知り、京都守護職として、かつては孝明天皇の警護をしたが、今では朝敵とされた悔しさ、さらには人々をひどい苦しみから解放したい、と話した。

 『会津戊辰戦争』によると、八重はその夜、「降参の旗は、長三尺巾二尺位、それも小布(こぎれ)を多数集め漸(ようや)く縫合(ぬいあわ)したもので、之(これ)を縫ふ人達は泣きの涙で針先は少しも進まなかつたと申して居ました。之を一間半位の竹竿(たけざお)に結びつけ、3個所に立てた。一本は正門前の石橋の西端、一本は黒鉄(くろがね)御門の殿様の御座所(ござしょ)の前、他の一本は判りません」

 また、「當時(とうじ)白布は既に繃帯(ほうたい)に使用し盡(つく)したるを以(もっ)て、漸く白の小片を縫合し、辛うじて降旗三〓(りゅう)を得たるも、婦女子等共に断腸の感に打たれ、熱涙滂沱(ねつるいぼうだ)、旗為めに濕(しけ)ひたりといふ」。婦人たちは、涙ながらに「降参」の白旗の小片を縫い合わせた。

 当時、日本に白旗を掲げる風習はなく、嘉永6(1853)年にペリーが浦賀(現横須賀市)に来航した時、幕府に伝わったともいわれ、日本で初めて白旗を掲げたのが鶴ケ城だったようだ。白旗は敵味方がよく判るように墨で「降参」の文字を入れた。

 降参の白旗三本は、22日午前十時、現在の黒鉄門の南側と北出丸入り口の裁判所前交差点南西側にある石橋欄干、もう一本は不明だが、おそらく東側の小田山方面から見える三ノ丸土塁上に立てられたとみられる。

 八重は『会津戊辰戦争』で「当日の事を考へると、残念で腕を扼(やく)したくなります。此(この)時の城中は全く火の消えた様に寂然(ひっそり)でありました」と降伏当時の様子を述べている。

(※〓字は流のさんずいを方)


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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開城前夜
「降参」の白旗のうち、1本は城正門前の西側石橋欄干に立てられたという

【2012年12月9日付】
 

 

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