minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 会津の華は凜としてTOP 】
 開城式 
 
 通り中央に「泣血氈」 耐えた八重むせび泣く


 会津藩による開城は、「降参」の旗を掲げたことに始まる。前述したように、『会津戊辰戦争』は時刻を午前10時としているが、薩摩藩の『中村半次郎書簡』には、午前8時に掲げられた、とある。

 開城式は、現在の会津若松市の裁判所東側、甲賀町通りの路上中央において、正午に始まった。『会津戊辰戦争』には、菰(こも)の北側に幕を張り、菰の西半分に薄緑の毛氈(もうせん)を敷き、松平容保(かたもり)、10代藩主喜徳(のぶのり)、家老の萱野権兵衛、梶原平馬、内藤介右衛門、軍事奉行添役秋月悌次郎ら計9人が並んで新政府軍代表を待った。

 東半分には、十五尺四方に朱色の毛氈が敷かれ、錦旗を持つ新政府軍の軍監中村半次郎(薩摩藩)、岡藩(大分県)出身の軍曹山縣小太郎らが並んだ。中央には火鉢と煙草(たばこ)盆が置かれていたという。後に、半次郎らが座った毛氈は、血に染まったように会津藩士らには見えたことから「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれるようになった。

 この時、半次郎らは、恭順の意を表した容保の嘆願書は受け取ったが、会津藩重臣らの嘆願書は、重臣を見下していたため、容保と同じ内容と思い込み受け取らなかった。この後、容保と喜徳は一旦(いったん)、城に戻ったが、妙国寺(会津若松市一箕町)への謹慎を命じられ、午後3時に城を出ている。

 八重は『会津戊辰戦争』の中で、開城式の様子を次のように述べている。「妾(わたし)は、正門の傍(そば)より遥(はるか)に見ましたので、其(その)場所は、判然としませんが、御城の直(す)ぐ前の西郷(頼母(たのも))様と内藤(介右衛門)様との間、石橋の辺と申していました。此(この)時、妾共は、実に口惜くて、暗涙(あんるい)を呑(の)んで見ていましたが、中には石垣に頭をつけて歔欷流涕(きょきりゅうてい)して居た婦人もありました」。八重は、1カ月に及ぶ籠城戦を耐え忍んだ、悲惨な様子を思い出し、その悔しさから、人知れずむせび泣いた。他の婦人も石垣に頭を付け、すすり泣いていたという。

 『会津戊辰戦史』によると、開城式終了後、容保は城中の重臣らを前に訣別(けつべつ)の意を表し、その後、二ノ丸の空井戸と二ノ丸北側に位置する伏兵郭(梨園)の仮墓地を訪れている。そして、「香花を供して礼拝し、諸隊の前に至り、一隊毎(ごと)に辛勤(しんきん)の労を慰して訣別告げたる」と二ノ丸の戦死者を投げ入れた空井戸と、戦死者を埋葬した仮墓地に出向き霊を弔った。『史談会速記録』には、伏兵郭の仮墓地の戦死者は土を掛けておく程度に埋葬された。明治2年春に掘り返すと、死骸は長持(ながもち)に六杯にもなったという。

 容保は、本丸から太鼓門を経て北出丸の追手門を出た。この時、軍曹の山縣は馬から下りて容保に一礼し、再び馬に乗り、薩摩藩兵の小隊を引き連れ、容保と喜徳が乗る駕籠(かご)、長持三竿(さお)と両掛の荷を持つ供廻(ともまわり)、最後に土佐藩の小隊を伴い、博労町(現上町)を経て妙国寺へ向かった。

 『会津戊辰戦争』によると、寺に入った際、「時に夕陽将(まさ)に没せんとして非哀の気、境内に満つ」と、落城に似た哀愁が漂う光景だったという。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

>>> 38


開城式
容保らが謹慎した一箕町の妙国寺

【2012年12月16日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN