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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重の猪苗代送り 
 
 わざと男装、人員調 籠城男性と同様に謹慎


 開城した9月22日、鶴ケ城内の会津勢は、5235人(『太政官日誌』)または、4956人(『会津戊辰戦史』)であった。

 八重は、開城式後の悔しさを『会津戊辰戦争』に述べている。その日の午後、全員が三ノ丸に移されると、直(す)ぐに新政府軍が歓喜の声を上げ、本丸に入ってきたという。この時、城内に駆け込む足音が三ノ丸まで聞こえ、八重は「『ウム、残念、奸賊(かんぞく)共(ども)』と、今にも斬つて入り、腕のかぎり縦横に斬り捲(まく)つて死なふかと、殆(ほとん)ど衆心一致したものでありますが、詮方(せんかた)なく、城中音する方を睥睨(へいげい)(にらみ)ながら、切歯扼腕(せっしやくわん)したのであります」と語っている。

 夕方、全員が武器携帯の有無などを確認する人員調のため、桜ケ馬場(現鶴ケ城会館)へ移された。桜ケ馬場には桜(エドヒガンザクラか)があったが、城内に桜はなく、現在の桜は明治時代に植えられたものである。

 桜ケ馬場での人員調は、日が暮れたため中止となり、八重らは再び三ノ丸へ戻されている。その時、今まで三ノ丸に並べられていた会津藩葵紋の提灯(ちょうちん)は、岡山藩池田家の揚羽蝶(あげはちょう)の提灯に替えられた。八重は、「汚(けが)らはしい奸賊共の提灯が、ウム残念」と歯ぎしりした。

 その夜の零時ごろ、月が煌々(こうこう)と輝き、八重は、三ノ丸南側の雑物蔵(ぞうもつぐら)(現市営プール北東角)の壁に、(同志社大に残る)「明日の夜は何国(いずこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」の歌を笄(こうがい)で刻んだ。歌の意味は、明日の夜になると、どこの誰かが、慣れ親しんだ天守閣をこれから眺めるのだろう。戦いの激しさや悔しさが月影として映っている、という意味である。

 翌23日、『会津戊辰戦争』によると、朝、御握りが一個ずつ配られた。その時、八重は、「飯粒が朝日に輝き異様にキラキラするので、毒を混ぜしものならんかと」疑ったのであった。

 この後、女性と子ども、60歳以上の老人は、「お構いなし」と、どこへ行っても良かったが、籠城した男性は、猪苗代での謹慎を命じられた。八重は、わざと戦死した弟の名前を付け、山本三郎と称し、男装(黒の洋装)して人員調を受けた。しかも誰一人女性と疑う者はなく、城を出発している。先にも述べたように、途中、新政府軍の雑兵が八重を見て「ア、女郎が居る、女郎が行く」と叫び、付いてくるので、うるさくて堪(たま)らず、隊列の左右に移動しながら、猪苗代に向かっている。

 会津藩の朱雀隊士が書いた『暗涙之一滴』には、隊列は三ノ丸北の埋門(うずみもん)を出て、本(ほん)一之丁、天寧寺町、石引道通り(現会津若松市東山町)、滝沢峠を経て、猪苗代へ向かったという。郡上藩(岐阜県)の凌霜(りょうそう)隊士が書いた『心苦雑記』には、戸ノ口原には会津藩士の死骸二十余が放置され、「香(にお)ひ鼻をつき抜く程にて言語に絶す」と悲惨な状態で、八重もこの光景を目の当たりにした。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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現在の会津若松市営プール観覧席下には、八重が歌を刻んだ雑物蔵があった

【2012年12月23日付】
 

 

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