minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 会津の華は凜としてTOP 】
 開城後の八重 
 
 女性と分かり解放 母らと共に農夫の家へ


 9月24日午前10時、薩摩藩士の軍監中村半次郎らは鶴ケ城を接収した。『中村半次郎書簡』は、「追手中門(おおてなかもん)」で家老山川大蔵(おおくら)らが出迎えたと書くが、鶴ケ城に追手中門と呼ぶ門はなく、追手を入った中にある門、すなわち太鼓門で出迎えたのだろう。大蔵らは、本丸大書院の床に三幅対の掛け軸を掛けて大砲、弾薬、兵器の目録を提出後、静かに城を去り、城内の会津藩士が謹慎する猪苗代へ向かった。

 一方、『会津戊辰戦史』によると、同日、南会津の大芦(現昭和村)では、会津藩士約100人と新政府軍とが激戦を繰り広げ、会津藩5人、新政府軍22人が戦死した。翌25日、田島(現南会津町)にいた家老佐川官兵衛のもとに開城が知らされ、会津藩兵に撤退が命ぜられた。会津戦争はここに終結した。

 26日、大内(現下郷町大内)に集結していた城外の会津藩兵1400余人は、塩川(現喜多方市塩川町)へ謹慎を命ぜられる。会津藩士小川渉の『志ぐれ草紙』によると、城下は無法地帯となり、新政府軍は農家や商家の区別なく家財を奪い、白河へ運んでは骨董(こっとう)商が買い取っていたという。

 『会津戊辰戦史』には、城内の老人と子ども、婦女子は塩川に向かい、病人284人は青木村(現会津若松市門田町青木)送りとなった。婦女子らは塩川到着後、代々奉公していた譜代の農夫の家に分散している。一例として、戦争責任を取り、明治2年5月18日に自刃した家老の萱野権兵衛の夫人と子(郡長正)は、漆村(現北塩原村谷地)の五島喜右衛門宅へ身を寄せている。

 23日、人員調を通過し、猪苗代送りとなった八重だが、女性と分かったため解放されると同時に、母佐久らがいた塩川へ向かったようだ。その後、山本家譜代の農夫の家に母らと移ったのであろう。場所は、若松から西へ三里ほどの所(現会津美里町)だった。

 ところで、京都の薩摩藩邸に捕らわれの身となっていた覚馬は、京都から会津へ向かう薩摩藩士に手紙を託した。「越後より攻め寄せたる薩兵の、会津以西三里許(ほど)の一村落に宿す。其(その)農夫は即(すなわ)ち翁(おう)(覚馬)が家の譜代のものなりき。薩兵夫(そ)れとも知らず、翁の事を語る。曰(いわ)く翁は、薩邸に在り、厚遇を受け、恙(つつが)なき故、若翁の親族に遭はば之(これ)を伝えよ」(『山本覚馬翁の逸事』)と。「〜薩兵の〜に宿す」とあることから、開城後、薩摩藩士が山本家に出入りしていた農夫の家に偶然宿したことで、覚馬の手紙が八重らに渡り、戦死したと思われていた兄の安否を確認できた。

 長州藩毛利家一門の岩国(現山口県)藩士長谷川達助が書いた『北越進軍日記』には薩摩藩が、慶応4(1868)年9月、若松から西三里に当たる現会津美里町の入田沢(いりたざわ)、新屋敷、逆瀬川(さかせがわ)に進軍していることから、そのいずれかに農夫の家は存在していたと思われる。

 近年、明らかになったが、『元斗南藩貫属各府県出稼戸籍簿』によると、八重は明治3年に「川崎尚之助妻」として出稼ぎのため米沢にいた。籠城戦が始まる前、山本家に来ていた米沢藩一人扶持四石、馬廻(うままわり)螺役(ほらやく)の内藤新一郎政共(まさとも)宅へ戦後、母らと共に行っていたのである。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

>>> 40


開城後の八重
内藤信一郎の屋敷は、米沢城の北、現在の米沢市丸の内二丁目にあった

【2012年12月30日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN