minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 会津の華は凜としてTOP 】
 米沢から京都へ 
 
 夫・尚之助との別れ 無事だった覚馬を頼る


 開城後の八重の米沢行きには、夫の川崎尚之助(しょうのすけ)が関わっていたようである。尚之助については、近年、歴史研究家あさくらゆう氏や京都の竹内力雄氏が詳しく書き、その人物像、開城後の行動が次第に明らかになってきた。

 尚之助は、天保7(1836)年、但馬国(たじまのくに)出石(いずし)藩(現兵庫県豊岡市)の川崎才兵衛の四男として生まれた。藩にその才を見込まれて江戸へ行き、米沢(現山形県米沢市)出身の蘭学者坪井為春(いしゅん)の下(もと)で学んだ。

 一方、八重の兄山本覚馬は、蘭学と兵学を教えていた佐久間象山(しょうざん)の門下生となっていた。覚馬は、安政3(1856)年、会津藩校日新館内に蘭学所を設け、翌年、他塾で知り合った尚之助を招聘(しょうへい)する。

 万延元(1860)年、尚之助は、蘭学所から砲術部門が分けられたため、砲術師範となった。会津若松市の会津図書館に保管されていた数点の資料のうち、『就城老幼婦女子御扶持人別』によると、尚之助は藩から十三人扶持を与えられたことが昨年、分かった。

 また、『東京謹慎人別』には開城後、尚之助が猪苗代謹慎から東京送りとなった。時期は定かでないが、八重とはこの前後に別れた。その後、尚之助は、旧会津藩が家名存続を許された斗南(となみ)藩(現青森県)へ移住し、明治8年3月20日、東京で肺炎に罹(かか)り死去している。

 ところで、会津藩と米沢藩は、裏磐梯を通る米沢街道を介して交流が深かった。

 米沢藩3代藩主綱勝(つなかつ)の正室には会津藩初代保科正之(まさゆき)の娘媛姫(はるひめ)が嫁いでいる。しかし、万治元(1658)年7月28日、媛姫は母於万(おまん)により誤って毒殺される。子はなく上杉家は、御家断絶の危機を迎えたが、正之の尽力で十五万石に減封の上、存続が認められた。上杉家では、会津に足を向けては寝れないほど感謝したが、下級武士の中には、石高が徳川家によって関ケ原以降、約十分の一に減らされたことを怨(うら)む者も多かった。

 米沢藩は、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に属してはいたが、慶応4(1868)年7月28日、新政府軍の新潟港攻撃で米沢藩総督色部長門(ながと)が戦死すると、恭順の意を示すようになる。『鶴城叢書』(市立米沢図書館蔵)によると、米沢藩士の内藤新一郎は、籠城戦が始まる8月まで若松にいて、尚之助から大砲の操作を習っていた。それは表向き砲術の習得であるが、会津藩の情勢を探索していたと思われる。

 米沢藩が藩存続を優先し、完全に反会津に傾くのは、新政府軍が8月21日、母成(ぼなり)峠を攻撃した時であった。米沢藩は、直ちに会津藩との国境を封鎖し、会津から避難する町民を桧原峠の綱木関(現米沢市綱木)から入れなかったのである。このため、桑名藩士が書いた『戊辰戦争見聞略記』には、「餓死者も多く出て目も当てられない状況だった」とある。

 八重は、開城後、譜代の農夫宅に行き、その後、八重宅に出入りしていた米沢の新一郎を頼ったのであろう。内藤家の屋敷は、米沢城の北、丸の内にあったが、明治4年の廃藩置県後に番正町(ばんしょうまち)(現米沢市城西三丁目)に移ったようである。

 八重は、兄覚馬の無事を知り、京都に向かい、明治4年9月3日に米沢を出発し、11月(10月とも)に京都に着いている。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

>>> 41


米沢から京都へ
覚馬と関係の深い京都府庁

【2013年1月6日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN