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  【 会津の華は凜としてTOP 】
 山本覚馬と京都 
 
 鳥羽伏見で捕虜に 薩摩藩の下、厚遇で幽閉


 今回は、戊辰戦争時に八重の兄覚馬が京都にいた経緯を述べたい。

 国内情勢は、嘉永6(1853)年6月3日、浦賀(現神奈川県横須賀市)に米国のペリーが来航したことから大きく変化した。会津藩では、安政3(1856)年、蘭学の必要性を認め、藩校日新館に蘭学所を設け、覚馬は教授となる。『山本覚馬翁略伝』によると、藩から軍事取調兼大砲頭取十五人扶持を与えられている。

 中央では文久2(1862)年、幕府が新たに将軍後見職、政事総裁職(越前藩主松平慶永(よしなが))、京都守護職を設け、京都守護職には、会津藩主松平容保(かたもり)が就いた。家老の西郷頼母(たのも)らは反対したが、慶永が会津藩の「家訓(かきん)」を引き合いに説得。容保は「抑々(そもそも)我家、宗家と盛衰存亡を共にすべしとは藩祖公の遺訓」と述べ、「京師の地を以(もっ)て死所となすべきなり」(『京都守護職始末』)と拝命を受諾した。12月、容保は千余人の藩士を率いて京都黒谷の金戒光明寺に入った。

 翌文久3(1863)年、覚馬は会津で日本国内外の国防、京都の守りを説いた「守四門両戸之策(しゅしもんりょうとのさく)」を藩に提出した。それは、現在の瀬戸内海につながる四門の下関海峡、豊後水道、鳴門海峡、紀淡(きたん)海峡、両戸とする伊勢湾と東京湾防備の必要性を著したものであった。

 元治元(1864)年2月、覚馬は、京都在勤を命ぜられる。7月19日、京都御所西側の蛤御門(はまぐりごもん)を長州藩が襲う禁門の変が起き、覚馬は、砲兵隊を率いて敵を撃退した。この功績により、外交を担う公用人となる。しかし、そのころから(煙硝の影響との説もあるが)原因不明の眼病を患う。『山本覚馬翁逸事』によると「戦の時、巳(し)に両眼微朧(りょうがんびりょう)なりれん」とあり、僅(わず)かしか見えないほどの視力だった。

 慶応3(1867)年4月28日、覚馬は会津藩士の中沢帯刀とともに長崎へ行き、武器の調達をしている。出島のオランダ領事館を通じ、ドイツ人のレーマンとハルトマンが営む「レーマン・ハルトマン商会」から「シュンドナールドケーウェル銃(ゲベール銃)」1300挺(ちょう)を購入し、6500両を前金として渡している。この時、覚馬は幕府の医師、松本良順(りょうじゅん)が長崎に開いた「小島養生所」へ行き、眼(め)を診てもらったが、「無理に目を労せしものなれば」と、治療を諦めるほど悪くなっていた。

 慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まった。薩摩藩は、大坂で20人を捕虜にし、「山元角馬」の名が『薩摩藩慶応出陣戦状』(鹿児島県立図書館蔵)にある。覚馬らは、京都の薩摩藩邸(現同志社大)に送られ、稽古場に幽閉となった。

 この時、後に覚馬の「管見」を口述筆記した野沢鶏一(けいいち)(現西会津町野沢出身)ら会津藩士4人をはじめ桑名藩、幕府、新選組隊士ら計8人がいた。その中で、覚馬だけは、板張りに畳敷き(他の者は土間に板を置いて畳敷き)という特別待遇であった。もし、長州藩に捕まったならば、覚馬はこの世にいなかったであろう。

 八重の山本家では、鳥羽伏見の戦いで、覚馬は戦死したとの知らせを受け取っていた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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山本覚馬と京都
京都御所、蛤御門

【2013年1月13日付】
 

 

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