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 襄との出会い 
 
 八重が聖書を習う 当初の関係、先生と生徒


 八重が兄覚馬を頼り京都へ行ったのは、明治4(1871)年であった。

 覚馬は、明治2年には、薩摩藩の幽閉から自由の身となり、当時の京都上京三十一区河原町四〇一番地(現京都市中京区)の自宅で人材育成のために塾を開いていた。翌3年には、京都府の顧問となって名実ともに京都の産業振興を担った。

 八重は、明治5年4月、兄の勧めで日本最初の女学校「新英学校女紅場(にょこうば)」の権舎長兼教導試補に就いている。八重が後に夫となる新島襄と最初に出会ったのは、明治7年に米国から帰国した後の翌8年の4月で、襄が第4回京都博覧会を見に行った時であった。八重は、その時、襄が宿泊していた京都三条大橋の西側にあった目貫屋に行き、聖書を習っている。

 昭和3(1928)年に口述筆記された『新島八重子回想録』によると、「(八重は)三条大橋の西詰めに今でもある(現在はない)目貫屋という宿屋へ襄に聖書を習いに行って、会津籠城の話などをして居りました」という。当初は、先生と生徒の関係であり、八重は襄が話す米国の先進的な様子に興味を持って聞いていたことであろう。

 ここで襄に関し、少し述べたい。

 襄は、天保14(1843)年1月14日、江戸の安中藩板倉家上屋敷(現東京都千代田区神田錦町の学士会館)で生まれた。父は藩の祐筆をしていた新島民冶(たみはる)で、母は登美(とみ)といった。姉四人がいる六人姉弟の長男であった。幼名は、七五三太(しめた)といい、男子誕生を嬉(うれ)しく思った祖父の弁冶(べんじ)が名付けたとか、神棚に注連縄(しめなわ)があったことから付けられたとも伝えられる。

 七五三太は、嘉永6(1853)年、数え11歳の時、安中藩の学問所に入り、礼儀作法、儒学、剣術、馬術などを習った。そこで、儒学と礼儀作法を襄に教えたのが、喜多方出身の添川完平(かんぺい)(廉斎(れんさい))であった。

 「廉斎添川先生碑銘」(昭和10年建立、現喜多方市字諏訪の愛宕神社境内)によると、完平は、享和3(1803)年12月15日、小荒井村(現喜多方市字寺町)の農家と染業を営む、父添川清右衛門直光(なおみつ)、母富(とみ)の子として生まれた。文政3(1820)年には江戸の昌平坂学問所で学び、儒学者として知られていた(『廉斎遺艸(れんさいいそう)』)。

 天保11(1840)年には、安中藩主板倉勝明(かつあき)が、大坂にいた完平を招聘(しょうへい)し、翌年から藩教育の立て直しに当たらせている。

 七五三太が元服した時、完平は祝いとして酒を送ったという記録がある。安政5(1858)年6月26日、完平は江戸安中藩中屋敷で病死し、入谷の正覚寺(東京都台東区入谷)に葬られた。喜多方市の安勝寺(現喜多方市字諏訪)にも墓がある。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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襄との出会い
喜多方市の安勝寺にある添川完平(廉斎)の墓

【2013年1月20日付】
 

 

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