minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 会津の華は凜としてTOP 】
 八重と襄の会津旅 
 
 戊辰の傷痕色濃く 藩士生活いぜん窮乏


 八重が戊辰戦争後、初めて郷里の会津に戻ったのは、明治15(1882)年のことであった。

 『日抄』によると、襄は7月3日に京都を出発し、11日には中仙道を通り、郷里である群馬県の安中へ行った。そこで、神戸から船で移動していた八重と合流。18日には安中を出発し、覚馬の娘峰とその夫伊勢時雄の4人で会津へ向かった。八重と峰は、戊辰戦争後初の帰郷であった。峰らは前年に結婚し、新婚旅行も兼ねていた。当時、東北本線は開通していなかったことから、人力車での移動であった。

 一行は、日光見物後に白河へ行き、そこから白河街道(ほぼ現在の国道294号)を通り、勢至堂(せいしどう)峠で馬に乗り換え、湖南(こなん)(現郡山市湖南町)から舟で猪苗代湖北西岸に渡り、27日、七日町(現会津若松市七日町)の藤田平次方の清水屋(現大東銀行会津若松支店)に入った。当時の清水屋は、若松で最も大きな木造3階建ての旅館であった。

 白河街道からの峠越えは、八重と病弱の襄にとってよほど堪(こた)えたらしく、「ドタパタドタパタ馬ニ引カレテ若松ニ参ル、ソノ堪忍(かんにん)御了察(ごりょうさつ)アレ」と襄から愛弟子(まなでし)の徳富猪一郎(蘇峰(そほう))宛ての手紙に書かれている。

 八重が見た若松は、まだ戊辰戦争の傷痕が色濃く残り『日抄』には、「士族中多クハ貧困」とあり、若松に住む旧会津藩士の生活は依然として窮乏していたことがうかがえる。また「然(しか)ルニ北方(喜多方)ニ於(お)イテハ、農民中往々自由党ニ加入シ頗(すこぶ)ル民権皇張ヲ望ムモノアルヨシ」と、現在の喜多方市では、農民を中心に自由民権運動が起きていたことを記録している。

 襄と時雄は八重と峰を残し、8月1日、人力車で若松を出発して米沢を目指した。当時、米沢へ行くには、北塩原村の桧原峠(標高1094メートル)を越える米沢街道を通るしかなかった。2日に桧原(現北塩原村桧原)の大和屋(相原宅)に宿泊している。明治21年に磐梯山が大爆発する前のことで、桧原湖はなかった。襄は、3日に白布高湯温泉の東屋(ひがしや)に逗留(とうりゅう)し、21日、布教活動などで米沢の甘糟(あまかす)三郎宅へ行くまで『青春時代』の執筆をしていた。

 襄が米沢へ行っている間、八重と峰は若松に留(とど)まっていたと思われる。戊辰戦争で武家屋敷のほとんどが焼失し、八重の生家があった米代四ノ丁(現米代二丁目)は、水田と畑に変わり、繁栄の面影は全く残っていなかった。

 八重はこの時、父権八が慶応4(1868)年9月17日、城南の戦いで戦死したことから、戦場近くの一ノ堰(現会津若松市門田町一ノ堰)に墓を建てたようである。権八の墓だけは他の会津藩士の墓と異なり、氏名が彫られた自然石となっている。八重は、父の墓前で、あらためて戊辰戦争の悔しさを噛(か)みしめたことであろう。

 8月23日、米沢から会津へ戻った襄は、八重とともに思い出が多く残る若松を去り、9月2日、東京に着いた。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

>>> 45


八重と襄が宿泊した清水屋旅館跡

【2013年2月3日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN