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 会津若松教会設立 
 
 男女平等教え実践 八重の姿に非難の声も


 会津から京都へ移った八重が、直ちに西洋的な考えを受け入れたわけではなかった。

 明治5(1872)年4月14日、女学校の「新英学校及女工場」が設立されると、八重は権舎長と教導試補として勤める。権舎長とは寄宿舎の舎監であり、生徒に規律を守らせる役目で、八重は会津時代に培った厳しい礼儀、作法を指導していたようだ。教導試補としては、生家で機織りをしていた経験(『会津戊辰戦争』)から伝統的な女性の役割と仕事を教えていた。

 しかし、明治8年10月15日、八重が襄と婚約すると、11月には異教徒を警戒する人々の圧力により、女工場を解雇されてしまう。襄は八重の兄覚馬宅から京都御所東の借家(現在の鴨沂(おうき)高校)へ移り、明治9年1月、八重との新婚生活が始まる。

 同年10月24日、八重とアメリカ人女性宣教師A・J・スタークウェザーらによって女子教育の塾が現在の京都御苑内にあったデイヴィス邸に開校した。八重はそこで「キリスト教主義」「国際主義」「リベラル・アーツ」のもと、良心を持って知識、能力を運用し、社会の礎となって活躍する、自立した女性を育む教育を目指した。その教えは、現在の同志社女子大学へ受け継がれている。明治11年9月7日には、アメリカの友人シアーズからの寄付により、現在の新島旧邸の地に西洋風の新居が完成し移っている。

 そのころ、京都の人は人力車に夫より先に乗り、西洋的に振る舞う八重を奇異の目で見ていた。同志社英学校の生徒の中にも、八重の行動を受け入れない者もいた。明治九年、東京英語学校から同志社英学校へ転入学した思想家で、評論家の草分けとなった徳富猪一郎(いいちろう)、後の蘇峰(そほう)である。

 猪一郎は、尊敬する先生を「襄」と呼び捨てにする八重を嫌い、学生演説会の最中、出席していた八重を前に演台から「頭と足は西洋で、胴体が日本のまるで鵺(ぬえ)(想像の動物)のような女性がいる」と非難している。

 一方、男女はお互い平等であるとのキリスト教の教えに基づいた「会津若松教会」が八重の故郷、会津若松に設立されるのは、明治24年1月22日のことだった。場所は、現在の会津若松市役所栄町第一庁舎の地である。

 『会津若松教会百年史』によると、明治18年には白河にいた飯田勇記が伝道師として若松に派遣される。翌19年1月21日には、七日町の一新亭(現清水屋履物店)において、襄の教えを受けた東正義(あずままさよし)の説教会があり、300人以上が参加した。さらに5月23日、若松に来た襄から14人が洗礼を受けている。

 襄にとって八重の故郷で信者が誕生したことは、感慨深かったであろう。また八重は、新しい時代が若松に来たことを嬉(うれ)しく思ったに違いない。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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会津若松教会設立
会津若松教会は1916年に会津若松市宮町へ移転した

【2013年2月17日付】
 

 

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