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 夫・襄との別れ 
 
 「狼狽するなかれ」 病回復せず46歳で永眠


 新島襄と八重は、明治16(1883)年4月から同志社英学校を、神学部や医学部、法学部など幅広い専門分野の学部、学科、コースを学べる大学にしようと、同志社大学の設立運動を開始する。同時に、牧師・伝道師を養成し、キリスト教を布教しようとした。

 ただ襄は、八重との結婚当初から病弱で、健康に留意しながらの活動であった。明治17年4月から、翌18年12月にかけて、襄は欧米を外遊する。ところが明治17年8月6日、襄はイタリアからスイスへ至るサンゴタール峠で心臓発作を起こし、呼吸困難となり山頂の旅館で二通の遺書を認(したた)めている。

 作家の徳富蘆花は、『黒い眼と茶色の目』の中で、「自分(襄)はその時非常に苦しんだ。諸君のことを思い、妻(八重)のことを思い」と書いており、襄が自身の病よりも生徒と八重のことを気に掛けていたことが分かる。実際、八重は絶えず襄の体を気遣う毎日であった。襄が旅行をする際もできるだけ付き添って看護をしていた。

 同志社大学を設立する際も「仏教の町」京都だけに、大変な苦労があった。明治21年4月12日、襄は京都の浄土宗総本山知恩院の大広間を借り、地元の名士を招いて大集会を開いた。その時650人以上の参加があったという。

 大学設立への理解を求める活動は、八重を「鵺(ぬえ)」と酷評した徳富猪一郎(蘇峰、蘆花の兄)も『国民之友』誌上で協賛運動を展開している。4月22日には、伊藤内閣で大蔵大臣を務めた井上馨(かおる)邸において、政財界の有力者と小集会を開き、支援と理解を求めた。その時も襄は、脳貧血を起こし倒れている。襄の活動が実り、7月19日、外務大臣大隈重信の大臣官邸での集会では、渋沢栄一ら政財界人から3万1000円(当時)という多額の寄付の申し出を受けている。

 しかし、心臓が悪い襄は、いつ絶命するか予断ならなかった。7月2日、襄は医師のベルツと難波一両氏の合診により、心臓病は回復の見込みがないことを知らされると、『漫遊記』の中で「八重ノ愁歎(しゅうたん)一片ナラス、大ニ予ノ心ヲ痛メシメタリ」と書いている。

 その八重も『亡愛夫襄発病の覚』の中で、「妾(わたし)(八重)は、日夜の看病に疲労し、或時(あるとき)は亡夫の目覚め居れるを知らずして、寝息を伺はんと手を出せば、其(その)手を捕へ(襄は)八重さん未(ま)だ死なぬよ、安心して寝よ。余りに心配をなして寝ないと、我より先に汝(なんじ)(八重)が死すかも知れず。左様(さよう)なれば我が大困りだから安眠せよ。と度々申したり」と話したという。襄は八重に対して、感謝の気持ちと行く末を案じていたようである。

 襄は、明治22年11月28日、群馬県前橋に滞在中、胃腸の激痛を訴えた(『徳富猪一郎宛ての手紙』)。以後、神奈川県大磯町の「百足屋旅館離れ愛松園」で療養することとなる。

 しかし、病は回復せず、明治23年1月21日、襄は八重と徳富蘇峰らを枕元に呼び遺言を伝えた。23日午後2時20分、八重らに看取(みと)られ、急性腹膜炎症により46歳で永眠する。襄最期の言葉は「狼狽(ろうばい)するなかれ、グッドバイ、また会わん」であった。


会津の華は凜として

会津古城研究会長   
   石田 明夫

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夫・襄との別れ
大磯の百足屋本館跡に立つ「新島襄先生終焉之地」碑

【2013年2月24日付】
 

 

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