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没頭し教授の免許 自宅を改装、月3回茶会
夫の襄が明治23(1890)年1月に永眠した後、八重は社会福祉活動とともに茶道に傾倒した。
明治27年、八重は本格的に裏千家の茶道を習い始め、5月8日には裏千家宗家十二世又妙斎(ゆうみょうさい)から初級に当たる「入門」と「小習事拾六ケ条」の許状を受けている。会津では、武家社会において茶道の石州流を習うことが多く、鶴ケ城内には現在、県指定重要文化財の茶室「麟閣(りんかく)」が保存されている。
八重が京都で茶道を習うようになったのは、明治5(1872)年4月、女性初の学校「女紅場」においてであった。そこには、宗家十一世玄々斎(げんげんさい)の長女、千猶鹿子(せんゆかこ)が教師として働いており親交があった。
明治29年には、日本赤十字社の篤志看護婦活動が認められ、勲七等宝冠章を受章したが、その後、日赤の活動はあまり目立たなくなる。それと反比例するように、八重は茶道の世界にのめり込んでいく。
同じ年の12月には、中級に当たる「行之行台子(ぎょうのぎょうだいす)」を受け、翌年には、「盆点(ぼんてん)」「台天目(だいてんもく)」を受けている。さらに、明治31年6月には、上級に当たる「真之行台子(しんのぎょうだいす)」が伝授された。驚くほどの上達ぶりであった。
茶道教授の免許を得ると、八重は洋風建築の自宅一階を改装し、十三世圓能斎(えんのうさい)が揮毫(きごう)した「寂中庵(じゃくちゅうあん)」の扁額(へんがく)を掛けた。自らは「新島宗竹(そうちく)」として月3回、自宅で茶会を開いた。
八重は、明治40年11月、自宅の土地と建物を同志社大学に寄付し、同大では、その謝礼として、毎年600円の養老金を支給したが、その金を受け取るたびに多くを茶道具代に費やしたという。
晩年、八重は臨済宗建仁寺の竹田黙雷(もくらい)のもとへ通い、お茶を嗜(たしな)んでいた。禅にも興味を持ち、ある時、教えを乞(こ)うために建仁寺へ出掛けた。すると黙雷は、「教えることはない。でも遊びに来なさい」といい、それから八重は月4回の黙雷の説教に出掛けている。八重がキリスト教信者であることを承知の上での誘いであった。
やがて八重は、黙雷から禅宗の袈裟(けさ)と「寿桃大師」の安名(あんみょう)(法名)を賜っている。そのため、昭和5(1930)年には八重がキリスト教から禅宗に改宗したという噂(うわさ)が広がり、地元の京都新聞にまで報じられている。その時、八重は「一つの宗教に籍を置いているからといって、他の宗教のお話を聞いてはいけないことにはならないでしょう」と答えている。
昭和7年4月25日には、八重の米寿の祝いが大沢商会の別邸がある京都市右京区太秦(うずまさ)で開かれた。八重はその年の6月に逝去するが、発病の3日前まで茶会に出席していた。
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会津古城研究会長
石田 明夫
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京都市東山区にある建仁寺の茶室 |
【2013年3月3日付】
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